「自分史」カテゴリーアーカイブ

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その23

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その22)の続きになります。

【サヨさんの墓石はどこ?!】

昨日は、日、月と連休でサロンが休みでしたので松丸の芝不器男記念館へ行ってきました。

芝不器男記念館

Facebookのお友達より芝不器男記念館のスタッフに 私のおばあさんの事を ご存じの方がおられるという事をお聞きしていましたので昨日お会いしに行ってきました。

嫁さんを職場に送ったその足で松丸へ向かいました。

松丸について ぽっぽ温泉の駐車場に車を置いて芝不器男記念館へ向かう前に

芝不器男記念館

ついでなので ちょっと松丸でも街歩き動画を撮ってその後で芝不器男記念館へ伺いました。

芝不器男記念館

受付をされていた方が、私のおばあさんをご存じの方でした。

そして私の従妹もご存じで そのスタッフさんの弟さんと私の従妹が同級生だったという事でした。

スタッフさんからは、新しい情報を得る事は出来ませんでしたが、有意義なお話ができました。

芝不器男記念館を出てから近くの永昌寺へ行ってみました。

永昌寺

ここには、母の実家の吉田家のお墓があります。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

今まで墓石をまじまじ見た事がなかったので気がつきませんでしたが、吉田家のお墓の一区画に竹葉のお墓も一緒にある事に気が付きました。

永昌寺

これは、どういう事なんだろうか?

従姉が、話していたように 昔は、兄弟の関係だったのだろうか?

そしてサヨさんの墓石を探してみましたが、見つかりませんでした。

他の場所にあるのかなぁ?

そこで永昌寺で聞いてみよと自宅のブザーを押してみたのですが、誰もおられない様でした。

自宅に帰ってから夕方頃電話をしてみましたが、電話も出られませんでした。

また日を改めて電話してみる事にしました。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その24

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

 

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その21

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その20)の続きになります。

【「杉本家文書」より「吉田竹兵衛」の名前が!】

松野町教育委員会のKさんより吉田家についての新しい情報を頂きました。

町誌の酒造の項には、「杉本家文書」の慶応二年の庄屋の外御目見書に、「松丸吉田竹兵衛同正木又兵衛」の名があり、」
とあり、慶応二年(1866)にも吉田が造酒屋だったことがわかります。

という情報を頂きました。

また「芝家文書」の中に文久元年(1861)8月に書かれた「去申八月より当酉七月迄中用仕出牒」(村の支出)を見てみると、吉田喜兵衛が100 匁、とあり、これは、正木、吉良に次ぐ3番目の金額で、吉田が豪商だったことを物語っています。

吉田喜兵衛は近代、松丸随一の豪商として知られていた吉田屋の前身と考えられ、紙や蝋を大阪と直接取引したとあります。この他、米、酢、茶、椎茸、箸、土瓶、貝柄杓、火縄、鉄砲薬、七嶋、燈明、炭など、食品から炭まで多様な商品の記載がありました。

と「芝家文書」の中にこのような事が書かれている事も教えて頂きました。

そして「吉田喜兵衛」と「吉田竹兵衛」は、同時代に生きた可能性があるということです。

という事は、吉田喜兵衛が、吉田屋の前身と考えられるということですので吉田の本家のご先祖様であることが分かりました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

そうなると今回新しく登場してきた「吉田竹兵衛」が、私の母の実家の分家の「サヨ」の夫になるのかなと想像しています。

家系図

Kさんも「杉本家文書」より 「吉田竹兵衛」が、造酒屋だったことがわかりますと述べられていますので母の実家のご先祖様に間違いないと思います。

ただ母の実家が、最初現在の正木正光酒造場であったのかを閉鎖登記簿で調べた結果明治32年以前のモノは破棄されていて確認できませんでしたので確証がつかめませんでした。

現在の正木正光酒造場の前は、竹葉酒造であったことは、明治時代の地図で確認できましたので そうなると竹葉酒造の前に吉田が、酒造りをしていたのか?という疑問が残ります。

「吉田竹兵衛」は、どこで酒造りをしていたのかが、知りたいところです。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その22

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父の25回忌

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昨日は、父の25回忌でした。

25回忌と聞くと「えっ?」と思われる人も居ると思います。

私もそうでした。

17回忌のあとは、23回忌かと思っていましたら 大超寺では23回忌はせずに25回忌になると言われてそうなんだとちょっと驚いた事がありました。

これは、お寺の宗派によって違うようですね。

 

私の父は、昭和8年宇和島市に生まれて中学卒業後に 父の後を継ぎ理容師になりました。

私の祖父も理容師でした。

父は、昭和36年に結婚して翌年3代目となる長男の私が生まれます。

昭和37年に宇和島自衛隊募集事務所開設以来より自衛隊募集相談員の役を引き受け理髪店経営という職を生かし自衛隊の広報及び自衛隊の諸行事等に対し積極的な支援協力を行っていました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

父が、自衛隊募集相談員になるきっかけは、私の父は大阪の理容店に入って理容師をやっていたようで 大阪から愛媛に帰って来たときに松山の自衛隊の中で理容師をやった時期があったそうで その関係で宇和島に帰って来たときに自衛隊募集相談員の声がかかったようです。

父は、母の実家にあった鑑賞石を観て石に目覚め抹香石を集める様になり県内の愛石の会と交流をはじめ愛石展を開催したりしていました。

宇和島の公会堂で石の展示会をしたときには、岸信介氏が石の展示会を観に来られていたようです。

父と岸信介

集める石の種類も広がり平成8年には、念願の石の個展を宇和島伊達博物館で開く事もできました。

伊達博物館

その後、平成12年(2000年)2月11日肝臓癌の為宇和島市立病院にて67歳永眠しました。

 

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その20

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その19)の続きになります。

【母の実家は、家系は吉田だけど血筋は竹葉だった】

家系図

 

従姉の母やおばあさんから聞いた話として吉田は、竹葉の血が流れてるという話をされていたそうですが、それが何故かという事は、従妹も理解できていなかったようです。

それを従姉から聞いた私も それについてどういう事なのか謎でした。

それから色々と原戸籍を集めて家系図を作っていくとその理由が判明しました。

戸籍の範囲でわかることは、竹葉家から吉田分家に養子に入っているのは、竹葉家の類蔵の二男の曾祖父で吉田本家からは、喜平の三女のクラさんが、曾祖父と婚姻しています。

しかしこの二人の間には、子供ができていません。

そこで曾祖父は、Y家より養女である私のおばあさんを貰っています。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

実は、私のおばあさんが竹葉の血を引いてる事がわかりました。

それは、Y家に養子に入ったおばあさんの実の父親は、竹葉類蔵の三男だったからです。

という事で 母の実家は、家系は吉田ですが、血筋は竹葉の血を引いている事になります。

これは、原戸籍で分かる範囲での調査なのですが、それより上では、もしかしたら吉田の血と竹葉の血が、繋がっているという事もありうるのかもしれません。

従姉が、言うには竹葉は、吉田の兄弟みたいなものだと聞かされているようですから。

ただ、今のところ その証明はできていません。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その21

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その19

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その18)の続きになります。

【殿様の逆鱗に触れ島流しに】

従姉から聞いた話では、吉田家の先祖は、江戸時代に あまり立派な屋敷を作ったので殿様の逆鱗に触れて島流しにあったという話が伝わってるという事でした。

この話を聞いた時に思い出したのが、以前テレビの番組で放送されていました話で 江戸前期の豪商淀屋辰五郎は、天井にとりつけたガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたそうです。

5代目淀屋三郎右衛門(廣當、通称辰五郎)が莫大な淀屋の家督を引き継いだのは元禄15年(1702年)のことで時、辰五郎14歳。(17歳という説もある)その3年後の宝永2年(1705年)、淀屋は闕所けっしょとなります。

闕所けっしょとは、財産をすべて没収され、大坂から所払いとなってしまいました。

その理由が「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」というものでした。

なんかその話に似ているなと思いました。

そこで 従姉から聞いた話が、事実であれば昔の資料に残ってないかと国立国会図書館デジタルコレクションで探していましたら、まーきみ。さんが、こんな資料があるとメッセージで送ってきてくれました。

まさに私が、探していた資料でした。

それを読んでホントだったんだ。と二度読みしました。

よくよく読むとこれは、吉田家の話ではなく竹葉家の話でした。

竹葉市次郎の祖先の話として紹介されていました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

 

【伊予の山水と人物と事業】コマ番号260(P101)[国立国会図書館デジタルコレクション]

祖先そせんは、川後かはご森城主渡邊式部少輔教忠もりじょうしゅわたなびしきぶせうゆうのりただに仕え七兵衛
、八兵衛の兄弟は、軍事探偵となって敵情を探りしばしば軍功を立てたが、芝美作しばみまさくの為に城主教忠のりただが討たれ一族郎党離散、八兵衛は戦死し七兵衛は、百姓となって土着した。その子孫一之進は、宝暦十一年河原淵町かはらふちまちに質屋を営み間もなく醤油醸造を兼ねその子彌助やすけが、家督を相続して家は益々繁盛して川筋かわすじ七ヶそんの金銀をつかさどるに至った。

すなわち今の金融業でその勢力は素晴らしいものがあった、彌助やすけの二男常右衛門つねうえもんは、分家して酒造業を初めたがこれまた商売すこぶる繁盛した。

當時藩とうじはんの方針としは、一般民間建築様式に制限を設けていたが、常右衛門つねうえもんはこれを無視して尨大ぼうだいな家を建築したので遂に流罪にせられ本家は、罰金をあぶせ付けられた。その後金融業を廃して醤油専業となった。

それから数代をた先々代彌平やへいとき明治維新の財界パニックに際し一家没落の悲運に遭ったが先代市次郎は、十七歳の時家を継いで勤倹力行、専念家業を励んで遂に巨万の富を作り明治村あけはるむら十人組に数えられる資産家となった。主市次郎氏は、祖父に当たる養子となり大正十二年家督相続と同時に襲名して現在に至った。

この話が、吉田家の話として伝わったのは、たぶん私の曾祖父は竹葉家の二男で 吉田家へ養子に入った事が原因なんじゃないかなとと思いました。

 

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