日本の活字印刷の始まり(伏見版・駿河版)から、江戸期に木版へ回帰した理由、そして明治期に活版印刷が再び普及した背景を総合的に解説。近代化・新聞・教育制度・本木昌造の技術革新など、印刷史の大転換点をわかりやすく紹介します。
家康の活字印刷から明治の新聞革命へ──日本の活版印刷史を読み解く
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日本の活字印刷は、16世紀末から17世紀初頭に発展した「古活字版」から始まり、徳川家康の伏見版・駿河版などに代表される大規模な出版事業へと発展しました。その後、江戸時代には整版木版が出版の主流となります。なぜ活字印刷は定着せず、明治期に再び急速に普及したのでしょうか。本木昌造、新聞、学校制度などを手がかりに、日本の印刷史の大きな転換点を解説します。
日本の活字印刷はどのように始まり、なぜ明治期に再び普及したのか──木版から活版へ、日本印刷史の大きな転換点
日本の印刷史には、興味深い「二度の活字化」の波があります。
最初の波は、16世紀末から17世紀初頭にかけて訪れました。朝鮮から伝わった技術や西洋の活字印刷技術を背景に、日本では木活字を使った「古活字版」が盛んに作られるようになります。徳川家康が命じた伏見版や駿河版は、その代表例です。
ところが、江戸時代が進むにつれて、出版の主流は活字から木版による「整版」へと移っていきます。
そして19世紀、幕末から明治にかけて、西洋式の金属活字と印刷機が導入されると、活版印刷は再び急速に発展します。新聞、法令、学校教育、辞書、実用書など、短期間に大量の情報を印刷する必要が生まれたからです。
では、なぜ17世紀には活字が主流にならず、19世紀には社会の基盤技術になったのでしょうか。
その答えを理解するには、「活字が日本文化に合わなかった」と考えるのではなく、それぞれの時代の出版市場に、どの印刷方式が適していたのかを見る必要があります。
■ 日本の活字印刷の始まり──16世紀末の「古活字版」
日本で本格的な活字印刷が広がったのは、16世紀末から17世紀初頭です。
国立国会図書館によれば、16世紀末には、朝鮮で行われていた活字印刷の技法が伝わったほか、宣教師によって西洋式の印刷技術も伝えられました。
文禄2年(1593)には、後陽成天皇の勅版『古文孝経』が作られたとされ、現存するものはありませんが、日本における初期の活字印刷の一例として知られています。
その後、慶長・元和年間(1596~1624)には、多数の書物が活字によって印刷されました。こうした出版物は、現在「古活字版」と総称されています。(国立国会図書館)
古活字版では、木などに文字を一字ずつ彫って活字を作り、それを組み合わせて版面を作ります。
これは、版木にページ全体を彫る整版木版とは異なる方法です。
■ 家康が主導した大規模出版事業──伏見版と駿河版
古活字版の歴史を語るうえで重要なのが、徳川家康による出版事業です。
ただし、これを単純に「国家プロジェクト」と呼ぶよりも、家康が主導した大規模な出版事業と捉えるほうが正確です。
● 伏見版──約10万個の木活字
伏見版は、徳川家康の命を受けた足利学校第9代庠主・三要元佶が、京都伏見の円光寺で慶長4年(1599)から11年(1606)にかけて出版したものです。
『貞観政要』『孔子家語』『三略』『周易』『七書』などが刊行されました。
使用された木活字は約10万個とされ、そのうち約5万2千個と付属品の一部が現在も京都・円光寺に保存されています。(国立国会図書館)
これらは、儒学や政治、兵学などに関わる漢籍を中心とした出版物でした。
家康の時代には、こうした古典籍を印刷によって広めることが、学問や政治文化を支える重要な意味を持っていたと考えられます。
● 駿河版──約10万個の銅活字
家康は慶長12年(1607)に駿府へ移った後、林羅山や金地院崇伝らに出版を命じました。
これが「駿河版」です。
代表的なものに『群書治要』や『大蔵一覧集』があります。
駿河版には、約10万個の銅活字が用いられたとされています。国立国会図書館は、これを日本で最初に鋳造された銅活字による大規模な出版事業の一つとして紹介しています。
『群書治要』は政治・統治に関する古典を集めた書物で、帝王学の書として重視されました。(国立国会図書館)
ただし、駿河版の出版事業は家康の死去によって中断されました。
■ では、なぜ活字印刷は江戸時代の主流にならなかったのか?
ここが日本印刷史の大きなポイントです。
17世紀初頭には高度な活字印刷技術が存在していたにもかかわらず、江戸時代を通じて出版の主流となったのは、活字ではなく木版による整版印刷でした。
その理由を「日本語は活字に向かなかったから」とだけ説明するのは適切ではありません。
より重要なのは、江戸時代に発達した商業出版の仕組みと、整版木版が非常によく適合していたことです。
■ ① 活字は毎回組み直す必要があった
活字印刷の大きな特徴は、文字を組み替えることで別のページを作れることです。
一見すると非常に合理的ですが、古活字版では、印刷が終わると活字を解体して次のページのために組み直す必要があります。
つまり、同じ本を後から追加で刷りたい場合、すでに組んだ版面をそのまま保存しておくことができません。
国立国会図書館も、古活字版は比較的小規模な刊行には適していた一方、寛永期ごろから書物の需要が増えて商業出版が盛んになると、毎回活字を組み直す必要があることが問題となり、整版印刷が主流になったと説明しています。(国立国会図書館)
■ ② 一度作った版木を保存できる木版は、商業出版に適していた
整版木版では、ページ全体を一枚の版木に彫ります。
版木を作るまでには大きな手間と費用がかかります。しかし、一度完成した版木は保存しておくことができ、需要に応じて何度も印刷できます。
これは、同じ作品を繰り返し販売する商業出版にとって大きなメリットでした。
一方、活字印刷では印刷するたびに組版の作業が必要になります。
つまり、
「活字のほうが技術的に優れていたかどうか」
ではなく、
「当時の出版ビジネスにどちらが適していたか」
という問題だったのです。
この違いは、日本で活字印刷が一度発達した後に整版木版が主流になった理由を理解するうえで重要です。
■ ③ 江戸時代の出版物と木版の相性がよかった
江戸時代には、学問書だけでなく、物語、俳諧、草双紙、絵入り本など、さまざまな出版物が大量に流通するようになりました。
こうした出版文化では、文字だけでなく、書体や版面構成、挿絵なども重要でした。
木版印刷なら、文字と図像を一体の版面として作ることができます。
実際、近世初期の古活字版にも絵入り本は存在しますが、国立国会図書館が紹介する『帝鑑図説』では、本文に活字を用いる一方、挿絵部分は整版で作られています。(国立国会図書館)
これは、活字と木版が単純に対立していたわけではなく、用途に応じて両方の技術が使い分けられていたことを示しています。
■ ④ 日本語の複雑な文字体系も、活字のコストを高くした
日本語の印刷には、漢字だけでなく、ひらがなやカタカナ、さらに多数の異なる仮名字形を扱う必要があります。
特に江戸期の書物では、筆書きに近い連綿した仮名や、多様な字形が使われていました。
そのため、活字を用いる場合には、多数の字種や字形を用意し、適切に組版する必要があります。
これは、活字印刷のコストや手間を増やす要因の一つでした。
ただし、これを「日本語は活字に向かなかった」と単純化するべきではありません。
実際、日本では後に日本語の金属活字が発達し、大量の新聞や書籍が印刷されるようになります。
したがって、文字体系そのものが活字を不可能にしたのではなく、17世紀の出版環境では、整版木版のほうが経済的・実務的に適していたと考えるほうが適切です。
■ 活字が消えたわけではない──「主流ではなくなった」が正確
ここで注意したいのは、
「江戸時代に活字印刷が完全に消滅した」
わけではないということです。
古活字版は文禄年間から慶安年間(1592~1652)ごろまで約50年間にわたって盛んに行われました。国立国会図書館には現在も約300点の古活字版が所蔵されています。(国立国会図書館)
また、幕末になると西洋式の活字印刷技術が再び導入されます。
つまり日本の印刷史は、
活字 → 木版 → 活字
という単純な断絶ではなく、
古活字版の発展 → 整版木版を中心とする出版文化の成熟 → 西洋式活版印刷の導入
という流れとして見ると理解しやすくなります。
■ 幕末、日本に西洋式活版印刷が再び入ってくる
19世紀になると、日本を取り巻く環境が大きく変化します。
西洋の科学・技術・軍事・外交などに関する情報を迅速に取り入れる必要が生じ、従来とは異なる印刷技術が求められるようになりました。
幕末には『官板バタヒヤ新聞』などの新聞が刊行され、日本語による新聞という新しい情報媒体も登場します。
国立国会図書館によれば、文久2年(1862)に刊行された『官板バタヒヤ新聞』は、日本語新聞の嚆矢とされ、その後、『海外新聞』『中外新聞』などが続きました。(国立国会図書館)
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こうした新しい情報需要が、活版印刷の重要性を高めていきます。
■ 本木昌造──近代的な日本語活字印刷の基盤を築く
この転換期を語るうえで欠かせない人物が、本木昌造です。
本木昌造は長崎を中心に西洋式の印刷技術を研究し、近代的な金属活字の製造と活版印刷の発展に大きな役割を果たしました。
1869年、本木は上海の美華書館からウィリアム・ガンブルを招き、金属活字の鋳造技術を学びました。
印刷博物館は、この年を本木昌造が国内で近代的な活字製造に取り組んだ重要な時期として位置づけています。(印刷博物館)
ここで重要なのは、本木昌造を「日本で初めて活字を発明した人物」と捉えないことです。
日本にはすでに古活字版の長い歴史があり、幕末にもさまざまな活字印刷の試みがありました。
本木昌造の重要性は、西洋式の金属活字製造と印刷技術を、日本語の出版に対応する近代的な印刷事業へ発展させる基盤を築いたことにあります。
その後、本木の門人たちは東京にも進出し、活字製造・活版印刷の技術を全国へ広げていきました。(印刷博物館)
■ 新聞が活版印刷を必要とした
活版印刷の普及を後押しした最大の要因の一つが、新聞の登場です。
新聞は、それまでの書物とは大きく異なるメディアでした。
書物なら、一つの作品を長期間かけて制作し、版木を保存しながら何度も印刷できます。
しかし新聞は、新しい情報を短い間隔で印刷しなければなりません。
この性質は、文字を組み替えて新しい紙面を作れる活版印刷と非常によく適合しました。
その象徴が、明治3年12月8日(1871年1月28日)に創刊された『横浜毎日新聞』です。
国立国会図書館によれば、『横浜毎日新聞』は日本初の日刊日本語新聞とされ、新聞を毎日速く印刷するため、神奈川県知事・井関盛艮が本木昌造に協力を求めました。本木は弟子の陽其二と上原大市を横浜に送り、新聞刊行に取り組ませました。(国立国会図書館)
ここには、明治期に活版印刷が広がった理由がはっきり表れています。
新しい情報を、短時間で、大量に、繰り返し印刷する。
この新しい社会的需要に、活版印刷が適していたのです。
■ 学校制度の整備も印刷需要を拡大させた
もう一つの大きな変化が、近代的な学校制度の成立です。
明治5年(1872)に学制が公布されると、全国的な学校教育の整備が進められました。
学校が全国に広がれば、当然ながら教科書や教材などの印刷需要も増加します。
もちろん、明治初期の教科書制度は現在のように最初から全国一律だったわけではありません。
しかし、近代的な学校制度の成立によって、教育用の印刷物を大量に供給する市場が形成されたことは、印刷産業の発展を考えるうえで重要です。
活版印刷は、こうした新しい教育需要にも対応できる技術でした。
■ 法令・行政・実用書──「大量の情報」を必要とする社会
明治政府の成立によって、印刷物の需要は教育や新聞だけにとどまりませんでした。
法令、布告、官報、辞書、翻訳書、科学書、技術書など、新しい制度や知識を社会へ伝えるための印刷物が大量に必要となりました。
つまり明治期には、
- 新聞
- 学校教育
- 法令・行政
- 科学・技術
- 辞書・翻訳書
- 一般向け書籍
など、さまざまな分野で印刷需要が拡大していったのです。
ここで重要なのは、単に「活版印刷という優れた技術が発明されたから普及した」のではないということです。
活版印刷を必要とする社会そのものが形成された
という点です。
■ 印刷機械の近代化も活版の普及を後押しした
活字鋳造技術だけでなく、西洋式の印刷機械も日本に導入されました。
これによって、手作業中心だった印刷は徐々に機械化され、印刷速度や生産能力が高まっていきます。
活字を大量に鋳造する技術と、それを効率よく印刷する機械が組み合わさることで、活版印刷は近代的な印刷産業へと発展していきました。
ここでも重要なのは、活字だけではなく、
活字製造+組版+印刷機械+出版市場
という一連の仕組みが形成されたことです。
■ 木版は消滅したのか?
ここまで読むと、
「明治になって木版が廃れ、活版に完全に置き換えられた」
と思うかもしれません。
しかし、実際にはそう単純ではありません。
明治期には活版、木版、石版、銅版など、複数の印刷技術が並行して使われました。
木版は、活版が普及したからといって突然なくなったわけではありません。
出版物の種類や用途によって、適した印刷技術が使い分けられていたのです。
つまり、明治期の変化は、
「木版が消えて活版になった」
というより、
「活版が新聞・行政・教育・実用書など、新しい大量情報流通の領域を急速に広げた」
と考えるほうが正確です。
■ 結論──活版印刷の普及を生んだのは「技術」と「社会」の組み合わせ
日本の活字印刷史を振り返ると、二つの大きな転換点が見えてきます。
一つ目は、16世紀末から17世紀初頭です。
この時期、日本では古活字版が発達し、徳川家康の伏見版・駿河版など、大規模な活字出版事業が行われました。
しかし江戸時代に入ると、書物の需要と商業出版が拡大します。
その市場では、一度作った版木を保存して繰り返し印刷できる整版木版が非常に適していました。
そのため、活字印刷が完全に消滅したわけではないものの、出版の主流は木版へと移っていきます。
そして二つ目の転換点が、幕末から明治です。
新聞、学校教育、行政、法令、科学技術など、新しい社会が大量かつ迅速な情報流通を必要とするようになりました。
そこに、本木昌造らによる近代的な金属活字製造技術、西洋式印刷機、そして新しい出版産業が結びつきます。
こうして活版印刷は、再び大きく発展しました。
つまり、日本の印刷史は単純な
「木版から活版への進歩」
ではありません。
むしろ、
「その時代の出版市場と情報需要に、どの印刷技術が最も適していたのか」
という視点で見ると、その変化がよく分かります。
17世紀には、商業出版と整版木版が結びつきました。
19世紀には、新聞・教育・行政などの大量情報流通と活版印刷が結びつきました。
そして、この二つの時代の違いこそが、日本の印刷文化が経験した大きな転換だったのです。
参考資料
- 国立国会図書館「平家物語・謡曲――古活字版」
- 国立国会図書館「ディジタル貴重書展 和漢書の部 第1章 書物の歴史を辿って」
- 国立国会図書館「国立国会図書館所蔵 古活字版目録」
- 国立国会図書館「明治初期に創刊された新聞に関わった人々」
- 印刷博物館「東京築地活版製造所活字」



