「宇和島の散歩道」カテゴリーアーカイブ

宇和島藩の市中引き廻しコースを歩いてヘトヘトに!

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昨日は、日曜日で定休日でしたのでまた街歩き動画撮影にでかけました。

江戸時代宇和島藩が、罪人を牛の背に後ろ向きに座らせて市中引き廻しをして畑枝の刑場へと送っていました。

今回は、その宇和島藩の市中引き廻しコースを歩いて撮影してみました。

まず朝8時過ぎに車で そのコースを下見してから歩いて撮影することにしました。

市中引き廻しの道順については、昭和2年2月25日に発行されている「宇和島大観」という本の「畑枝の刑場」の中で紹介されていました。

この本は、国立国会図書館デジタルコレクションで見る事ができます。

江戸時代には、立正寺りゅうしょうじ前に罪人を入れる獄屋があったという事なので 立正寺をスタート地点にすることにしました。

そしてゴールが、丸穂の畑枝の刑場です。

畑枝の刑場

本の中では、順路は町名だけで書かれていましたので 地図を見ながら町名を追っていけば大体順路は見えてきますが、分かりにくかったのは、笹町の道順と常念寺上手横町を抜けて丸穂の畑枝の刑場へ行く道順でした。

笹町は、地図上では分かりにくかったのですが、実際に現場へ行ってみたらここは、通らないだろうなという事がわかりました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

浄念寺じょうねんじというのは、今の浄満寺じょうまんじだと思います。

まーきみ。さんのブログでは、地図に順路を赤線で描かれていましたのでそれも参考にさせて頂きました。

撮影をするのにスタート地点まで車で行こうかと思いましたが、車を駐車するにしても 南予文化会館の駐車場になりますので それなら うちから近い佐伯橋まで歩いて行って そこから撮影を初めてゴールの畑枝の刑場に向かい その後でスタート地点の立正寺から撮影を開始して佐伯橋まで歩く方が効率が良いのではと思い家から歩く事にしました。

とりあえず無事撮影も終わり佐伯橋から私の自宅に帰るのに撮影も終了して気も抜けたせいか途中から歩くたびに足首が痛くなってきて 家に帰りつけるだろうかと思いながら帰ってきました。(^^;)

今回は、けっこう歩いたので「歩ポ」を見ると13944歩、歩いていました。

歩ポ

そして4ポイントをゲットしました。

自宅に着いたらもうへとへとでした。

普段は、あまり外を歩く事がありませんのでね(^^;)

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ブラタモリで紹介された辰野川を散策してみた!

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はい、こんにちはセイコウです。

いつもブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は、ブラタモリでも紹介されました藤堂高虎とうどうたかとらが付け替え工事を行った辰野川たつのがわ沿いを歩いてみました。

辰野川流域の寺町風景

辰野川沿いを歩いていて驚いたのはあるお寺が無くなっていた事でした。

この辰野川沿いは、宇和島市の新24景の22番に選ばれている「辰野川流域の寺町風景」のある通りとなります。

「宇和島新24景」も 今となっては、40年前に選ばれたモノになりますので 「新」と言って良いのかそこの処が、ちょっとわけありとなります。

これについては、新しく「宇和島新24景」を選びなおすような計画もあるよです。

辰野川は、野川の山奥からきさいや広場の横の下流へと流れて海へと流れ込んでいます。

辰野川が、付け替えられた事がよくわかるのは、JR駅近くの新町2丁目辺りで直角に曲がって海へと流れています。

もし自然に流れてる川なら直角に曲がる事はないですよね。

今回は、えんま様で有名な「西江寺せいごうじ」の近くの赤橋の辰巳橋たつみはしからスタートして辰野川に沿って歩き「金剛山大隆寺こんごうざんだいりゅうじ」をゴールにします。

寺町の風景と言われるだけあって辰野川沿いには、お寺の多い通りとなっています。

まず辰巳橋をスタートすると最初に「西江寺せいごうじ」があります。

西江寺せいごうじ」には、日本初の純国産蒸気船を作った前原功山のお墓があります。

辰野川流域の寺町風景

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

そして「選仏寺せんぶつじ」へと歩いていくとその途中の川沿いに黒柿の木があり その「黒柿」についての説明がされています。

選仏寺せんぶつじ」のすぐ横には「潮音寺」があります。

そして「潮音寺」に着いて驚いたのが、本堂が無くなっていた事です。

いつ壊したのでしょうか?

2015年に写真を撮りに行った時はまだ本堂はありました。

そして次に伊達家の菩提地の「龍華山等覚寺りゅうげざんとうかくじ」があります。

龍華山等覚寺りゅうげさんとうがくじ」から「金剛山大隆寺こんごうざんだいりゅうじ」を結ぶこの辰野川たつのがわ沿いの最短距離の小道を昔は、漆端うるしばたと言っていました。

こちらを通ってもう一つの伊達家の菩提寺となっています「金剛山大隆寺こんごうざん  だいりゅうじ」と向かいました。

興味のある方は詳しくは動画でどうぞ!

はい、という言う事で今回は、「ブラタモリで紹介された辰野川を散策」というタイトルで動画を作ってみました。

それでは今日のブログは、以上となります。

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コメントも頂けるとうれしいです。

それでは、バイ、バイ。

 

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くわんおんはし

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「くわんおんはし」ってご存じでしょうか?

別に 宇和島の方言という分けでもありませんが、橋の名前になります。

くわんおんはし

「くわんおん」をネットで検索してみると仏教語で「観世音(くわんぜおん)」の略とありました。

という事は、観世音「くあんぜおん」の「ぜ」が、省略されていますので 「観音(かんのん)」となりますね。

という事で「くわんおん」は、「観音(かんのん)」の事で「くわんおんはし」とは、漢字で書くと「観音橋(かんのんはし)」となるようです。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

それでは、この橋は旧宇和島市内のどこにあるかご存じでしょうか?

観音橋

この橋は、野川二区の辰野川に掛かっています。

この橋を渡って右へ曲がって先へ進むと階段がありその階段を登ると潮音寺になります。

しかし今は、その潮音寺の本堂は解体されていて空き地となっている状態です。

潮音寺
撮影:2024年1月7日
潮音寺
撮影:2015年5月31日
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ぶらり濱御殿跡を1周してみた!

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前回は、天赦園を見学しましたので 今回は天赦園が作られていた濱御殿の敷地をぶらり1周してみました。

目的は、YouTube動画を作るために撮影しながら歩きました。

濱御殿は、宇和島藩2代藩主の伊達宗利むねとしが海を埋め立てて造成して作られた「濱御殿」で その後、百歳長寿の大名で知られる7代藩主の伊達宗紀むねただが隠居し今の天赦園が「南御殿」と言われるようになったあと池泉回遊式庭園を造り天赦園となりました。

この天赦園の名は、あの独眼竜で有名な秀宗の父、伊達政宗がんだ「酔余口号すいよこうごう」の中の漢詩の一節(てんゆるところ)から採って「天赦園」と命名されました。

YouTube動画を作るために「濱御殿」の事を調べていましたらまーきみ。さんからこの本の中に書かれている「濱御殿」についての内容を紹介されました。

それは、津村寿夫つむらすみお著作の本で昭和44年6月15日発行の「宇和島の明治大正史(後編)」にその事が書かれていました。

津村寿夫つむらひさおと読むようです。http://tack7.fc2web.com/nenpyou/tumurahisao.html

それを読むと「お浜御殿を買った男」の事が書かれていました。

濵御殿って売りに出されていたのでしょうか?

それとも一部「伊達宗城の隠居所」だけが、売りにだされていたのでしょうか?

この本を読んで思った疑問です。

この本によると「伊達宗城の隠居所」の場所は、何処にあったのかが謎でした?

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

最後には、この屋敷は吉田繁氏が所有していたと書かれていましたが、吉田繁氏所有となった「伊達宗城の隠居所」は、いつ頃まで現存していたのだろうという疑問も持ちました?

疑問を持つと ハッキリさせたくなるたちなので このことを伊達博物館へ問い合わせてみました。

すると調べてみますということで時間を下さいという事でした。

3日経ってもまだ連絡がありませんので なかなか調査が難航しているのかもしれません。

昭和46年の地図に載っている「吉田繁氏」の家屋は、濱御殿敷地からはずれている場所なのでどういう事なのかなと疑問符がつきます。

濱御殿の敷地は、現在残っています「天赦園」から「伊達博物館」「天赦公園」「宇和島東高校」そして「河野整形外科」手前角までを含めた敷地が、江戸時代「濱御殿」の敷地となっていました。

濵御殿

濵御殿

この江戸時代の濱御殿の敷地を 天赦園をスタート地点として1周を歩いてみました。

その動画がこれです。

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宇和島藩市中引廻しの刑の道順

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最近は、国立国会図書館デジタルコレクションをよく見るよになりました。

今回は、昭和2年2月25日に発行されている「宇和島大観」という本の中で紹介されていた「畑枝の刑場」です。

時代劇を見ていると「市中引廻しの刑」というのを よく聞くことがありますよね。

市中引廻しは、江戸時代の日本で行われた刑で、死刑囚を馬に乗せ、罪状を書いた捨札等と共に刑場まで公開で連行していく制度でありました。

宇和島藩では、宇和島らしいやり方で「市中引廻しの刑」を やっていました。

それは、死刑囚を馬に乗せるのではなく牛に乗せて町中を引廻していたようです。

流石、闘牛の町、宇和島ですね。

昔は、闘牛とは言わずに「牛のつきやい」と言っていました。

その町を廻る道順ですが、北町立正寺前の獄屋から引き出された死刑囚は、六兵衛坂を通り本町、横新町、竪新町、亀屋横丁を抜けて再び本町に出で愛宕町、笹町、神田川原、佐伯町、櫻町、はまぐり横丁(焼き肉の「はちのす」の通り)、鎌原通り、樽屋町を裡町に出で浄念寺(浄満寺)上手横丁を抜けて丸穂の畑枝の刑場に送られていたようです。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

コースを地図で知りたい方は、まーきみ。さんのブログ畑枝の刑場(宇和島大観)で大正時代の地図と現在の地図で「中引廻しの刑の」コースが紹介されていますので そちらでご覧ください。

そして死刑囚は、畑枝の刑場の露と消えます。

当時死刑囚が通るときは、両側の町家は、固く戸を閉めて通行の人々は死刑囚の行手を避けて死刑囚を見る者は、ほとんどいなかったそうです。

それは、死刑囚にモノを頼まれたら あとで祟られるのではないかと恐れられたからだそうです。

「触らぬ神に祟りなし」と言いますからね。

 

 

 

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