「宇和島の散歩道」カテゴリーアーカイブ

橋の名前ってどうやって決まるのか?

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橋の名前ってどうやって決まるのかなぁ?と疑問を持ち ネットで検索すると NHKのシラベル力が、ヒットしました。

国道の場合の橋の名前は?

という事で北海道内の国道の橋を管理する北海道開発局の道路建設課の大門正樹さんによると川に架かっていれば川の名前を採用するほか、その地域の名前を採用することも多いという事です。橋を維持管理する上で、その場所がわかりやすい名前をつけるように意識しているということです。

川には多くの橋がかかっていますので同じ名前にならないようにするため、命名の際に工夫をしている事があるようです。

それは、「位置関係がわかりやすいように名前に西・東をつけて区別できるようにしたり、一番大きい橋には『大橋』をつけたりしたりすることが多いという事です。また、単純に1号、2号と名前につけることもあるようです。

基本的に橋の命名の作業に着手するのは、橋の完成のおよそ1年前なんだそうです。
現場で工事の管理を担う道路事務所の担当者が、川の名前や地名をもとに、名前の案を出し合うという事です。

このとき、同じ名前の橋がないかどうかもしっかり確認するようです。

こうして絞り込まれた案が、橋がある自治体の担当者に示された後、最終的な名前として正式に決定されるという事です。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

また この手順以外でも橋の名前が付けられる場合もあるようです。

それは、市町村からの強い希望があって名前を決めることもあるんだそうです。

いちおう北海道の場合は、こういう風に橋の名前が決められるようです。

ちなみに 宇和島のフジ恵美須町店の駐車場入り口にある昔作られた橋、「大黒橋」は、どうい経緯でこの名前が付いたのでしょうね?

大黒橋

恵美須町にちなんで「大黒橋」と付けられたのでしょうかね?

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消えた駅前の汐入橋

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汐入橋

1998年の地図で駅前の地図を見ていると 宇和島自動車ビル前の中央に汐入橋という名前の橋を見つけました。

畑枝川橋
2015年撮影

最近駅前を撮影する機会がありましたので この汐入橋も撮影しておこうと思いその場所へ行って名前を確認してみると橋の名前が、替わっていました。

そこで2015年に撮影した写真がありましたのでそれで確認するとその写真も「汐入橋」ではありませんでした。

畑枝川橋
2015年撮影

その橋の名前は、「汐入橋」では無く「畑枝川橋」となっていました。

畑枝川橋
2015年撮影

果たして「汐入橋」が、「畑枝川橋」になったのか?

それとも「汐入橋」は、取り壊されてしまったのか?

ただ「畑枝川橋」には、怪しい点があります。

橋には、橋の名前のネームプレイーとが、橋に埋め込まれています。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

畑枝川橋
2015年撮影

そのネームプレートが、付け替えられたような痕跡があります。

また「畑枝川橋」には、1997年7月という年月日が入っています。

それより前は、「汐入橋」だったということなのでしょうかね?

私が、見ている地図は、1998年の地図ですが、その地図には、「汐入橋」となっていますが、地図を作るとなるとその前の年1997年になるでしょうから「汐入橋」から「畑枝川橋」に名前が変わったのであれば地図には、古い名前で載る可能性もありますよね。

ただ橋の名前を替える事ってあるのでしょうかね?

これも宇和島の七不思議に入りますね!

 

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駅前から栄町港までの畑枝川が被覆された時期を調べてみた!

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今、駅前の商店街が、畑枝川の上に建てられているという事で これから起きるかもしれない南海地震のような大きな地震が起きると危険だという事で 川の上に建つ駅前商店街の商店は、取り壊されて駅前の被覆されていた川が、表に現れてきました。

これから何期にも分けて この工事が、繰り返し行われ最終的には、栄町港の市役所前まで行われるんだと思います。

このことで 駅前から栄町港までの畑枝川が被覆された時期っていつ頃なんだろうかという興味を持ち調べてみました。

栄町港の畑枝川上横デパートと呼ばれた3階建ての建物が完成したのが、昭和40年の新聞に載っていましたので その前の年昭和39年までに畑枝川が、被覆されたんだと思います。

そうなると駅前は、いつ頃被覆されたのかを調べるのに タナベ昭和館で紹介されている古い昭和の駅前の写真を調べてみました。

すると昭和34年の駅前の商店の写真に「蛇の目ミシン」の看板を見つけました。

蛇の目ミシンは、駅前にあった久保田書店横の岩崎楽器店が営業する前まで営業していました会社なのでそれを目当てにその並びの店の看板を確認しました。

すると写真の右側の看板に「入船」という文字が見えます。

その文字を手掛かりに 昭和46年に地図で調べると「入船靴店」がありました。

地図で確認すると駅前かどやの2軒隣でした。

「入船靴店」の向かって左隣は、「佐々木印章店」です。

写真で確認すると佐々木という文字が見えます。

その「佐々木印章店」の隣は、写真では、名前が確認できませんので 地図で確認すると地図の字もちょっとわかりません。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

活字でなく手書きなので。

その隣が、「丸田時計店」で写真と地図で確認できました。

その隣が、写真では、富士フィルムと書かれています。

地図では、「小富士商会」となっていまして「写真店」である事が確認できましたので ここに映っています写真は、今回取り壊されるかどや本店の並びに商店である事が、確認できました。

この写真「移り変わる町並み 宇和島駅と駅前通界隈5」には、

30 雪に大はしゃぎの子どもたち【錦町 昭和34年(1959)年頃】

と紹介されていますので 昭和34年には、今の場所、川の上に建物が建てられていた事がわかります。

なので昭和34年よりも前に 被覆工事がされていたことになります。

この事から駅前から畑枝川の被覆工事が、始まり栄町港へと工事が進んで行ったようです。

そこで市役所に 確認してみようと「駅前から栄町港までの畑枝川が被覆された時期」について問い合わせたら市役所も この問い合わせは、なかなか調べるのが難しかったのか3日目に回答を頂きました。

それによると昭和31年から昭和42年にかけてという回答を頂きました。

なので駅前から始まり栄町港へと被覆していったのだと思います。

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昭和42年の宇和島十大ニュース

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最近、パフィオの市立図書館で昔の宇和島のローカル新聞記事を見たときに印象に残った新聞記事を紹介しています。

その中で見つけた昭和42年の「宇和島十大ニュース」という記事が有りました。

これは、12月28日の記事であと3日で 昭和42年も終わろうとしている頃の記事です。

1番に選ばれていたのが、

「大かんばつと水道断水」

私が子供の頃は、宇和島は、よく断水をして給水車が、町内に来て水を配っていました。

その後、ダムが出来てからは、断水で困る事が無くなりました。

2番に選ばれたのが、

「津島町の原発建設調査と反対運動」

津島町に原発が、出来るかもしれないという話は、昭和42年頃だったんですね。

聞いた話では、親戚でも賛成反対が、分かれてしまって仲違いするような事態にまで発展していたという話を聞いた事があります。

調査の結果、津島町は地盤が弱いという事で伊方に原発が出来ました。

3番目に選ばれたのが、

「市長選挙で山本友一氏が当選」

山本友一さんは、昭和42年に市長に当選したんですね。

4番目に選ばれたのが、

「真珠業界の深刻な不況」

42年には、真珠って不況だったんですね。それから立ち直る事が出来たんですね。1970年後半から1990年代初頭までは、真珠は好景気でしたもんね!

5番目に選ばれたのが、

「河川被覆地の売却と敷坊所有地買戻し解決による市財政の弾力化」

駅前の畑枝川の被覆と栄町港の被覆って昭和何年に行われたのでしょうね?

私の中では、それが一番知りたい事です。

タナベ昭和館で紹介されてる駅前の写真でボーイスカウト鼓笛隊のパレードが駅前通りをパレードしている写真の左側に畑枝川の上に商店が建ってる写真がありました。この写真の撮影日は、 昭和32(1957)年7月頃となっていましたのでそれ以前にもう被覆されていたことになります。
移り変わる町並み 宇和島駅と駅前通界隈4

敷坊所有地って何処よ?

6番目に選ばれたのが、

「和霊神社の神門再建など復興計画の進捗」

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

そういえば私の持ってる昭和41年の和霊公園で撮影されてる写真には、まだ神門がありませんでしたね!和霊神社の神門

7番目に選ばれたのが、

「総選挙と今松前代議士の死去」

8番目に選ばれたのが、

「宮下三島神社の復興成る」

42年に今の三島神社の拝殿が、作られたんですね。

9番目に選ばれたのが、

「東ボート部の国体三連勝」

東高は、ボート部強かったんですね。

10番目に選ばれたのが、

「南予広域農業経済圏事業の発足」

以上でした。

その後で「欠点」1,2,番外があり

欠点1が、

「衣料スーパーフジの進出と丸ノ内百貨店の設立による商店街の影響」

フジ恵美須町店も昭和42年10月のオープンだったですね。

欠点2が、

「強盗犯の刑務所脱走」

番外が、

「相変わらず多い交通事故」

でした。

 

 

 

 

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昭和42年の友達の家の火事の新聞記事を見つける

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私が、まだ幼稚園だったか小学1年生だったかそんな頃の話です。

今では、その子の苗字も名前も憶えておらず 同い年だったかどうかの記憶もありません。

ただ、覚えているのは、その子の家も私と同じ町内で その子の家の記憶は残っています。

その子の家は、銭湯前にあった 文房具店の横から奥に入った家でした。

その子の家に遊びに行った記憶もあります。

ある日、その子の家が火事になりました。

火事になったという記憶はありましたが、それが何月だったかという記憶はありませんでした。

あとからその火事について 誰かから聞いた話では、火事の原因は、その子の火遊びだったという事を聞きました。

その火事以来、その子とは会うことはなくなりました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

その友達の火事の新聞記事を パフィオの市立図書館で偶然見つけました。

昭和42年新聞でした。

新聞記事によるとその子は、幼稚園児だったようです。

火事の原因は、一人で留守番をしていてクリスマスケーキのローソクにマッチで火をつけて遊んでいたところ火がふすまに燃え移ったということです。

ハタキで消そうとしたが、自分の手には負えず入院中の母親に知らせに行った間に大火になったという事でした。

そして近所の人の消火作業で最小限度で類焼を食い止めたということでした。

まさか昔、遊んでいた子の火事の記事に出会うとは思ってもみませんでした。

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