和霊騒動では、桜田玄蕃基親は悪役だが!

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桜田玄蕃基親といえば和霊騒動の事件で 初代宇和島藩主伊達秀宗の命令で桜田玄蕃一派が6月29日、山家邸を襲撃して山家清兵衛一族全員を殺害する事件がありました。

もしこの事件が、起こらなかったら今頃、宇和島には和霊神社は、存在しないし和霊大祭もありませんでした。

そう思うと歴史って皮肉ですね。

「桜田家は、初代玄蕃基親が伊達秀宗に従って宇和島に入り、侍大将を勤めました。

石高1,950石(家禄1,700石、与力分250石)でありました。

二代監物親宣は基親の娘婿で桜田家を相続して基親死亡年に実子数馬(親茂)が生まれ、数馬は慶安4年(1651)に番頭役、翌年承応元年(1652)に新知1,000石を与えられました。

この結果、監物基親の桜田家が本家、数馬親茂の家が分家という関係となります。

宇和島藩は秀宗入部まで頻繁に藩主が代わったために荒れており、藩政は前途多難でした。

そのため政宗の仙台藩から黄金3万両(6万両説あり)を借用していましたが、この返済問題が起こり、惣奉行の山家公頼は宇和島藩10万石から3万石を割いて政宗への返済に充てましたが、このため家臣の多くが減俸を余儀なくされて反対派が桜田を中心にして山家と対立しました。

もともと山家は山形藩最上氏の家臣で、伊達家譜代の桜田とは折り合いも悪かったようです。

元和6年(1620年)1月、幕府から大坂城石垣修築を命じられた秀宗は山家と桜田を奉行として派遣します。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

しかし工事の進捗状況に関しての秀宗に対する報告で桜田は秀宗に山家が不正をしていると讒言し、疑われた山家は秀宗に弁明して帰国し謹慎します。(実際は山家が正当であり、面目を失った桜田が逆恨みしたとされています。)

そして同年6月29日、山家清兵衛一族は桜田一派により襲撃されて殺害されました。この殺害事件に関しては秀宗から「山家の事は沙汰の限り」と書状にあり、秀宗の命令で桜田と一派が動いたと見られています。

通常、私怨による暗殺ならば桜田家も断絶は免れないはずですが、桜田家は無事に安泰で存続し、江戸時代末期まで家老として存続しているからであります。

桜田玄蕃基親の墓
おたまえ様の霊廟の右の墓所にある桜田玄蕃基親の墓

また、桜田は事件当時に大坂に滞在していたため、少なくとも直接手を下したとは思えないという事です。

寛永9年(1632年)、金剛山正眼院で営まれた桂林院殿(秀宗の正室の亀)の三回忌法要の際、大風で落ちてきた本堂の梁の下敷きとなり桜田玄蕃基親は、圧死しています。

その後も山家殺害事件の関係者らが次々と変死を遂げたために山家の祟りと言われています。

なお、桜田元親が死亡した時の話は「肥前平戸藩 松浦鎮信 武功雑記巻十七」に記されているという事で 危険になり他人を避難させ、その上で自分はただ一人残り法要を続け、姿勢正しいまま圧死したとの内容だという事です。

他に、河股城撤退時が見事であったと記載されているそうです。

桜田玄蕃基親には、こういった美談もあるんですね。

子孫の桜田親義は外交官となり、明治10年(1877年)からローマ公使館に駐在し、明治14年(1881年)からはオランダ臨時代理公使としてハーグに駐在したが、明治18年(1885年)、現地の愛人であったジーン・ロレットにより別れ話のもつれから射殺されたという事も起きています。

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