前回YouTube動画の取材で 金剛山大隆寺へ行った時に 案内図に 桜田家の墓とありましたので そこが、あの山家清兵衛を襲撃した桜田玄蕃のお墓かな?と思っていましたが、あの桜田玄蕃基親のお墓は、別の場所にある事を知りました。
Facebookのお友達のお友達からの情報ですが、おたまえ様の右側のお墓に桜田玄蕃基親のお墓があるとお聞きしました。
そこでまた伊達博物館へ聞いてみたらFacebookのお友達が、言われるようにおたまえ様の霊廟の右側のお墓にあるということでした。
桜田玄蕃というのは、1人だけではなく他にも居るという事で 桜田玄蕃基親の墓は、一番古い墓になるという事でした。
そこでまた「おたまえ様」まで 桜田玄蕃基親のお墓を探しにYouTube動画の取材へ行ってきました。
それらしき墓所が、手前と奥に2区画ありました。
手前をA 奥をBとします。
たぶんこのAかBの奥正面の五輪塔のどちらかに桜田玄蕃基親の墓が有ると思いますので その2つのお墓をメインに撮影しました。
取材後に A、Bのどちらに桜田玄蕃元親の墓が有るのかをFacebookのお友達のお友達のHさんにお尋ねすると 桜田玄蕃基親のお墓をスケッチした図面を送っていただきました。
その図面は、2つあり 1つが、桜田玄蕃基親のお墓で もう一つが、桜田玄蕃親翰のお墓の図面でした。
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まずは、撮影した映像と桜田玄蕃基親のお墓の図面を見ながら確認作業をしてみました。
そして分かったのが、Bのお墓の正面奥にある五輪塔と図面が、同じではなかという結論にたっしました。
そして桜田玄蕃親翰のお墓のもわかりました。
四角い石の右側の字が、「千本院号殿」と読み取れます。
桜田玄蕃親翰について宇和島市のホームページに下記の様な情報がありました。
親翰は、宇和島藩中興の英主といわれた五代藩主伊達村候に仕えて、重用せられた家老で、その死にあたっては、村候自ら墓に詣でたと、『鶴鳴余韻』に記されている。また、村候の江戸出府のとき幕府の要職にある高官を招待した際、老中から伊達藩家中の代表として、一番最初に盃を賜わっていることも『御年譜微考』にある。