母のモノを整理していると母の書いた作文が出てきまいた。
その作文は、カレンダーの裏に書かれていて 自分の昔の事を作文にしたものでした。
想像するに 老人会で小学生に自分の昔の事について話をする機会があったんだと思います。
たぶんその時のために作った作文だったのではと想像しました。
これを 読むと私の知らなかった事を知る事ができました。
その作文には、私の家は酒造りをしていたという事が書かれていて 戦争が厳しくなってきてからは、北宇和郡で造り酒屋をしていた店は、国の命令で強制的に止めさせられてお酒を造る事が出来なくなったという事でした。
そのため母の実家では、宇和島の卸屋から お酒を配達してもいお酒の小売りを始めたという事です。
酒造りが、出来なくなった父は、(私のおじいさん光男)宇和島で職があり毎日汽車で宇和島へ通勤していたという事です。
どういう職についたかが、気になります。
これでお酒の小売りの名義が、おじいさんの光男ではなく私のおばあさんの名義になっていた理由かが分かりました。
おじいさんの光男は、宇和島に仕事に行っていたのでお酒の小売りは、おばあさんがやっていたんですね。
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【▲上記の記事からの続き▼】
そして松丸に一発の焼夷弾が、落とされて破片が、家まで飛んできたという事で「怖かった」と書いていました。
焼夷弾が落とされた場所には、大きな穴が開いていたので 宇和島は、大変だろうなとも書かれていました。
戦争は、私が6年生の夏に終戦となり父は、松丸の農協に勤める事になったという事です。
これも初めて知りました。
おじいさんの光男は、終戦後は松丸の農協に勤めていたんですね。
そして私の母は、宇和島の鶴島高等女学校へ入学して1年行って2年生からは、近永の学校へ転校となったという事です。
6年生から宇和島の中学校や女学校へ行っていた人達も近永の学校へ転校になったということでした。
しかしその制度も長くは、続かなかったというこです。
そして母は、宇和島のドレスメーカー女学院に2年通い卒業して「そのだ洋装店」の縫子として入ったという事です。
母が書いた作文が見つかりましたので 私の知らなかった謎がまた少し解けました。