前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その21)の続きになります。
【原戸籍を元に吉田本家・分家・竹葉分家の関係図を作ってみた!】
今回は、原戸籍の情報を元に吉田本家(吉田屋)、吉田分家(母の実家)、竹葉分家(曾祖父の実家)の それぜれの家系図を作りそれらの家の関係性が分かる関係図を作ってみました。
【図1-1】の右に【図1-2】が繋がります。
そして【図1-1】と【図1-2】を拡大した図が、【図1】から【図4】となります
今まで私のおばあさんの名前は、伏せていましたが「花子」で曾祖父が、「治三郎」です。
そして吉田本家の二男「吉田Rさん」としていた方が、「林三郎」になります。
【図2】の吉田家(分家)の四女が、私の母になります。
【図1-1】
【図1-2】
吉田本家と吉田分家としていますが、従姉が、吉田屋が本家になるという事を言っていましたので本家としていますが、原戸籍からは、それが分かるモノは見つかりませんでしたが、吉田本家の三女のクラさんが、吉田分家の私の曾祖父の「治三郎」と結婚していることが分かります。
そして吉田本家の長女のキクさんが、【図3】竹葉分家の長男に嫁いでいます。
吉田本家長男が、吉田屋の当主の「精三」になります。
そして吉田本家家系図のトップの夫は、「喜平」という名前ですが、「芝家文書」に登場する「吉田喜兵衛」ではないかと思います。
【図1】
吉田分家のトップの「サヨ」の夫は、原戸籍からはわかりませんでしたが、「杉本家文書」に登場する「吉田竹
「サヨ」には、子供がいない事から【図3】竹葉分家の類蔵の二男「治三郎」を養子に取っています。
そして明治14年12月30日に養子の治三郎に吉田分家の家督が相続されていますので この日にサヨさんは、亡くなられたのではないかと推測します。
その後、明治20年4月26日に吉田本家三女クラさんと治三郎は、結婚しています。
しかし明治34年9月10日に治三郎とクラんは協議離婚しています。
【図2】
治三郎とクラさんの間には、子供がなかったので私のおばあさん「花子」を【図4】山口家から養女に貰う事になったようで明治37年3月29日に吉田分家に入籍をしています。
このとき花子おばあちゃんは7歳でした。
この時に7歳だったという事は、現在の正木正光酒造場で育ったという話が成立しなくなります。
閉鎖登記簿を調べたときに旧土地台帳には、明治32から33年には、人手に渡っていることになっていますので明治37年3月29日吉田分家に入籍したという事であれば現在の正木正光酒造場で暮らしていたという計算が合いません。
【図3】
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【▲上記の記事からの続き▼】
「花子」の実の父「要逸」は、【図3】竹葉分家の類蔵の三男になります。
なので私の曾祖父の「治三郎」と「要逸」は、兄弟になるので「花子」おばあさんと「治三郎」とは、伯父と姪の関係になります。
【図4】
という事は、正木正光酒造場の前は、竹葉分家の酒造場でしたし花子おばあさんの父は、竹葉分家の三男ですので 何かの事情で花子おばあさんが、父の実家の竹葉酒造場で暮らしていた可能性はありえるかもしれません。
従姉から聞いた話では、花子おばあさんは、赤ちゃんのときに養女になったという話を聞いているようなので 7歳になってから入籍したという事もあるのかもしれません。
そして大正7年11月25日に治三郎とクラさんは、また再婚をしています。
そして大正9年2月15日にクラさんは、亡くなられています。
大正12年12月4日の芝不器男の日記に「町の吉田酒屋の老夫婦が隠居所を建てる」という噂のことが書かれてありますが、これも矛盾があります。
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実際に隠居所(母の実家)を建てているのですが、大正9年にクラさんは、亡くなられているので 曽祖父の「治三郎」は独り身なので 老夫婦という表現にはあたりません。
なぜ大正12年に「老夫婦」がという噂がたったのかが謎です。
クラさんが、亡くなった事を知らずに生きてるモノと思っていたのでしょうかね?
あと原戸籍の情報をもとに吉田本家(吉田屋)、吉田分家(母の実家)、竹葉分家(曾祖父の実家)の それぜれの家系図を作りそれらの家の関係性が分かる関係図を作ってみたところ「松野町商工誌」に紹介されていた説明に誤りがある事もわかりました。
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娘は吉田家に嫁ぎとなっている箇所が違います。
これを言うなら吉田本家から吉田分家に 吉田本家喜平の三女(クラ)が嫁ぎとならなくてはなりません。
「しばらく吉田光男が酒造をすすめた。」と紹介されてる光男は、【図2】でもわかるように 花子おばあさんの夫であり私の祖父になります。
私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その23