城山の記憶と市民の祈り──司馬遼太郎『街道をゆく』に描かれた宇和島の風景
昭和53年、宇和島市が城山に武道館を建設しようとした計画と、それに抗議した市民の声を、司馬遼太郎の『街道をゆく』から読み解きます。
城山に武道館を──昭和53年、司馬遼太郎が見つめた宇和島の記憶
昭和53年、宇和島市が城山に武道館を建設しようとした—— その話を初めて知ったのは、司馬遼太郎の『街道をゆく 第14巻 南伊予・西土佐の道』だった。
司馬の筆は、城山の緑を守ろうとする市民の姿を、静かに、しかし力強く描いている。 「城山の緑を守る会」が文化庁に陳情し、開発に抗議したという記述は、まるで石垣の間から湧き出る泉のように、忘れられた記憶を潤してくれる。
なぜ城山だったのか?
昭和50年代は、全国的に地域振興とスポーツ施設整備が進んだ時代。 宇和島市もその流れの中で、都市公園として整備されていた城山に、武道館を建てる構想を描いたのだろう。
城山は昭和42年に「都市公園(歴史公園)」に指定され、広場や自動車道、遊具の整備が進められていた。 その延長線上で、武道館も「市民のための施設」として構想された可能性がある。
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では、城山のどこに建てる予定だったのか? 記録は残っていないが、地形や整備状況から考えると、長門丸(児童公園)周辺が有力候補だったのではないかと想像される。 ただし、車でのアクセスは難しく、急な坂道や石段が続く城山は、利便性よりも歴史的・文化的価値が際立つ場所だ。
城山はただの空き地ではない。 宇和島藩の歴史を抱え、石垣と緑が語りかけてくるような、静かな記憶の場所なのだ。
市民の声が守ったもの
「城山の緑を守る会」の活動は、単なる反対運動ではなかった。 それは、地域の歴史と風景を未来へつなぐための、ささやかな祈りだったのだと思う。 司馬遼太郎がその姿勢に共感したことは、彼の文章からも伝わってくる。
市民の声は、文化庁に届き、武道館計画は見直された。 そして今、城山は武道館ではなく、緑と石垣の静けさを保ったまま、宇和島城を見守っている。
市民の声が、ひとつの風景を守った。 その事実は、時代を越えて語り継がれるべきだと思う。
