小泉八雲とセツの夫婦愛:言葉を超えた「ヘルンさん言葉」の秘密

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NHK朝ドラ『ばけばけ』で注目の小泉八雲とセツ。ふたりの絆をつないだ「ヘルンさん言葉」と怪談の魅力を紹介!

小泉八雲とセツの夫婦愛:言葉を超えた「ヘルンさん言葉」の秘密

朝ドラ『ばけばけ』で再注目!小泉八雲とセツの物語

2025年秋、NHKの朝ドラ『ばけばけ』が放送され、明治時代の怪談文化や語り部の世界が話題になっています。モデルのひとりとされるのが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とその妻・小泉セツ。ふたりの間には、文化も言語も違うにもかかわらず、深い絆がありました。

なれそめ:富田旅館での運命の出会い

1891年、八雲が島根県松江の富田旅館に滞在中、体調を崩して寝込んでしまったことがきっかけで、セツと出会います。セツは住み込みの女中として働いており、看病を通じてふたりは急速に親しくなりました

セツは昔話や怪談が大好きで、語りの才能にあふれていました。八雲はその語りに魅了され、やがてふたりは事実婚のような形で暮らし始め、1896年に正式に結婚します。年の差は18歳。文化も言葉も違うふたりが、心でつながっていたのです。

「ヘルンさん言葉」とは?言葉の壁を越えた夫婦の工夫

八雲は日本語の文法に苦戦し、セツも英語の習得に苦労していました。そこでふたりは、助詞や語順を気にせず、意味が通じる独自の日本語スタイルを生み出しました。それが「ヘルンさん言葉」。

たとえば、「スタシオンニ タクサン マツノ トキ アリマシタナイ」は「駅で待ち時間があまりありませんでした」という意味。文法的には不思議ですが、八雲にはとてもわかりやすかったのです。

この言葉は、八雲が亡くなる直前まで使われていたとされ、ふたりの絆を象徴する言語となりました。

怪談文学の源泉はセツの語り

セツは旅館で聞いた昔話や怪談を「ヘルンさん言葉」で八雲に語り、それを八雲が英語で書き直して世界に発信しました。代表作『怪談』には、セツの語りが色濃く反映されています。

八雲は「あなたは私の手伝いできる人です」とセツに語り、創作のパートナーとして深く信頼していたのです。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

子供たちも言葉の橋を渡った?

ふたりの間には4人の子供(男の子3人、女の子1人)がいました。長男の一雄と次男の巌は英語と日本語の両方に堪能で、父の言語スタイルにも慣れていたと考えられます。家庭内では「ヘルンさん言葉」が自然に使われていた可能性もあり、言葉の壁を越えた家族の姿が浮かびます。

  • 長男:小泉一雄(かずお)父の遺稿整理や英語書簡の編集に関わっていた
  • 次男:稲垣巌(いわお)京都府立桃山中学校で英語教師(セツの養家に入り「稲垣姓」になった)
  • 三男:小泉清(きよし)画家
  • 長女:小泉寿々子(すずこ)幼少期から病弱だったこともあって、家庭中心の生活だった

八雲の晩年とセツの支え

八雲は1904年、54歳で亡くなるまで日本で暮らしました。セツはその後も家族を支え、1932年に64歳で亡くなります。ふたりの最後の会話も「ヘルンさん言葉」で交わされていたとされ、言葉の工夫が愛のかたちとして残りました。

セツの回想録『思い出の記』には、八雲が亡くなる前にセツへこう語ったとされてる

「私死にますとも、泣く、決していけません。悲しむ、私喜ぶないです」

文法は不思議だけど、心がまっすぐ伝わる言葉だよね。 この言葉遣いは、ふたりだけの世界で通じる愛のかたちで、最後まで変わらなかったんだ。

世界に届いた八雲の言葉

八雲の作品は20冊以上あり、英語圏で再出版され続けています。なんとアインシュタインも八雲の著作に感銘を受けていたという記録もあり、日本文化を世界に伝える架け橋となったのです。
アインシュタインは八雲の作品を通じて、日本に対する美しいイメージを抱いていたそうだ。

 

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