桓武天皇は百済王・武寧王の子孫だった?『続日本紀』や上皇陛下のおことばをもとに、百済との関係、即位への影響、古代日本の国際性をわかりやすく解説します。

桓武天皇は百済王・武寧王の子孫だった?『続日本紀』や上皇陛下のおことばをもとに、百済との関係、即位への影響、古代日本の国際性をわかりやすく解説します。
平成13年(2001年)、当時の天皇陛下(現在の上皇陛下)は誕生日記者会見で、次のようなおことばを述べられました。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」
このおことばは当時、大きな話題となりました。
「天皇家と百済に関係があったの?」と驚いた人も多かったと思います。
これをきっかけに桓武天皇について調べてみると、その生涯は想像以上に波乱万丈でした。
「母方が渡来系であること」がもたらした壮絶なハンデと、そこからの大逆転劇――。
そこには、まるで大河ドラマのようなドロドロとした皇位継承争いと歴史のドラマが隠されていました。
『続日本紀』は信頼できる史料なのか?
まず気になるのが、「本当に百済とのつながりがあったのか」という点です。
この話の根拠となっているのが、797年に完成した日本の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』です。
桓武天皇の時代に近い時期に編纂されており、公文書や朝廷の記録をもとに作られたため、日本古代史を研究する上で最も重要な一次史料とされています。
その『続日本紀』には、桓武天皇の母・高野新笠(たかののにいがさ)について、
「百済第25代国王・武寧王(ぶねいおう)の子孫である」
とはっきりと記されています。
1500年以上前の系譜ですから現代のDNAで完全に証明できるわけではありませんが、「当時の朝廷や桓武天皇自身が、そのように公式に認識していた」ことは間違いありません。
桓武天皇は百済の血を引いていたのか?
生物学的に考えれば、「母方に百済王族の祖先がいた」と理解して差し支えないでしょう。
一方で、「桓武天皇は百済人だった」という表現は正確ではありません。
日本の皇位継承における絶対原則は、父方をたどると天皇に行き着く「男系(父系)皇統」です。
桓武天皇の父は光仁(こうにん)天皇であり、父系は歴代天皇へと真っ直ぐつながっています。
つまり、
-
父方: 歴代天皇へと続く、絶対条件である「男系皇統」
-
母方: 百済王族の系譜を引く「渡来系氏族」
ということになります。
母が渡来系なのは「問題にならなかった」のか?(実は大問題だった!)
ここで一つの疑問が浮かびます。
「百済王家の血を引く人物が天皇になって、当時は問題にならなかったの?」
実は、歴史を深掘りすると、「問題にならなかった」どころか、大問題(超ド級のハンデ)になっていたことがわかります。
当時の皇位継承では、父方が男系であることと同じくらい、「母方の実家の格(身分)」が重視されました。天皇や皇太子になるには、母方も皇族か、せめて藤原氏のような最高権力者の娘であるのが常識だったのです。
しかし、桓武天皇の母である高野新笠の出身(和氏)は、百済王族の血筋とはいえ、当時は身分の低い下級官人の家柄にすぎませんでした。
そのため、長男として生まれたにもかかわらず、
「母親の身分が低すぎる(おまけに渡来系である)」
スポンサーリンク
【▲上記の記事からの続き▼】
という理由から、若き日の桓武天皇は皇位継承の候補者から完全に外されていました。出世を諦め、官僚としての一般職(大学頭など)に就いていたほどです。
なぜ天皇になれたのか? 奇跡の大逆転劇
では、なぜそんなハンデを背負った彼が即位できたのでしょうか。そこには凄惨な政治ドラマがありました。
当初、次の天皇には、正妻(皇后)である気高き皇女・井上内親王との間に生まれた、文句なしのエリートである他戸(おさべ)親王が皇太子に立てられていました。
しかし、藤原氏の権力争いの策略によって、この母子は「天皇を呪い殺そうとした」という冤罪(呪詛の疑い)をかけられ、突如失脚させられてしまいます。二人は幽閉され、のちに不審死を遂げました。
この大波乱によって、非の打ち所のない本命候補が全滅。消去法のような形で、45歳という当時としては異例の高齢で山部親王(のちの桓武天皇)に白羽の矢が立ったのです。
つまり、「母方が渡来系で身分が低い」という致命的な弱点がありながらも、お家騒動による奇跡的なタイミングが重なったことで、奇跡の即位を遂げたのが桓武天皇だったのです。
古代日本は想像以上に国際的だった
母方の身分の低さは政治的な弱点になりましたが、一方で「渡来系の血筋」そのものは、当時の日本にとって決してタブーではありませんでした。
奈良時代から平安時代にかけて、日本には、
-
百済(くだら)
-
新羅(しらぎ)
-
高句麗(こうくり)
-
唐(とう)
などから多くの人々が渡来していました。彼らは医師、学者、技術者、仏教僧、官僚として朝廷に召し抱えられ、日本の最先端文化や国づくりを支えるエリートビジネスマンとして大活躍していたのです。
桓武天皇自身も、即位後は自分のルーツである渡来系氏族を重用し、彼らの持つ高い技術力や知識をフルに活用して、平安京遷都などの大事業を成し遂げていくことになります。
桓武天皇の時代は激動の連続だった
こうしてハンデを乗り越えて即位した桓武天皇ですが、その治世はまさに激動の連続でした。
-
藤原種継 暗殺事件
-
実の弟・早良親王(さわらしんのう)への謀反容疑と廃太子
-
早良親王の憤死と、その後に続く「怨霊伝説」
-
怨霊から逃れるための、長岡京から平安京への遷都
-
坂上田村麻呂による蝦夷征討
身分が低かった自分が天皇になったからこそ、自分の血統(桓武ルーツ)を確固たるものにしたい。そんな強い執念が、数々の大事件や、10年で2回も首都を変えるという前代未聞の「平安京遷都」へとつながっていったのかもしれません。
上皇陛下のおことばの意味
2001年のおことばは、「天皇家は百済系である」と述べられたものではありません。
あくまで『続日本紀』の記述を踏まえ、
「(歴史的に交わりのあった)韓国とのゆかりを感じています」
と語られたものです。
この慎重かつ誠実な表現からも、歴史の事実を尊重しながら、東アジアの隣国との長い交流の歴史に思いを寄せられたことが伝わってきます。
おわりに
桓武天皇は、父方では絶対条件である「男系皇統」を受け継ぎ、母方には『続日本紀』が伝える「百済王族の血筋」を持つ天皇でした。
「母方が渡来系で身分が低い」という、当時は絶望的とも言えるハンデを背負いながらも、歴史の荒波の中で奇跡的に即位し、平安京という1000年の都を築いた。そのバックグラウンドを知ると、教科書に載っている「平安京に遷都した人」というイメージが、ガラリと変わるのではないでしょうか。
歴史は、一つの史実をきっかけに、当時の人々のリアルな息遣いやドラマが見えてくる。そんな面白さを改めて教えてくれる、桓武天皇の出自にまつわるお話でした。