靖国神社問題は、いつから日中間の外交問題になったのか。1978年のA級戦犯合祀、昭和天皇の親拝中止、1980年代の首相参拝、1985年の中曽根康弘首相による公式参拝、朝日新聞の報道、人民日報と中国政府の反応を時系列で検証します。

中曽根首相の公式参拝、朝日新聞、中国の反応を一次資料から検証する
はじめに――「靖国問題」はいつ始まったのか
現在、靖国神社への首相参拝は、日本の国内政治だけでなく、日中・日韓関係にも深く関わる外交問題として知られています。
しかし、歴史を少し遡ると、ある疑問が生じます。
なぜ靖国神社が、現在のような大きな外交問題になったのでしょうか。
A級戦犯14名が靖国神社に合祀されたのは1978年です。
ところが、その後も大平正芳首相、鈴木善幸首相、中曽根康弘首相らは靖国神社を参拝しています。
しかも、1985年4月22日にも中曽根首相は靖国神社を参拝していますが、この時点では現在のような大きな日中外交問題にはなっていませんでした。A級戦犯合祀後も歴代首相の参拝は続いており、研究上も、1985年8月15日以前には靖国参拝をめぐって日中間に大きな摩擦が生じていなかったことが指摘されています。 (Nippon)
では、何が1985年8月に変わったのでしょうか。
私は、その転換点を考えるうえで、
「中曽根首相による公式参拝」
が非常に重要だったと考えます。
ただし、ここにはもう一つ重要な要素があります。
それが、
朝日新聞による「靖国問題」の報道と、中国側の反応
です。
本稿では、1978年のA級戦犯合祀から1985年8月までを時系列で追い、靖国問題がどのようにして「国内問題」から「外交問題」へ変化していったのかを検証します。
1.1978年――A級戦犯14名が靖国神社に合祀される
まず、現在の靖国問題を考えるうえで欠かせないのが、1978年のA級戦犯合祀です。
靖国神社では1959年からB・C級戦犯の合祀が始まっていました。
一方、A級戦犯14名については以前から合祀が検討されていましたが、実際に合祀されたのは1978年10月17日でした。
合祀されたのは東條英機、広田弘毅、松岡洋右、白鳥敏夫ら14名です。
しかし、この事実は当初から大々的に公表されたわけではありません。翌1979年に報道され、広く知られるようになりました。 (Nippon)
ここで重要なのは、
A級戦犯が合祀された1978年が、そのまま靖国問題の国際問題化につながったわけではない
ということです。
むしろ、その後の出来事を見ると、少し意外な事実が浮かび上がります。
2.A級戦犯合祀後も、首相は靖国神社を参拝していた
A級戦犯が合祀された翌年の1979年、大平正芳首相は靖国神社を参拝しました。
その後も、
- 大平正芳
- 鈴木善幸
- 中曽根康弘
と、歴代首相が靖国神社を参拝しています。
特に鈴木首相は在任中に9回、中曽根首相も1985年8月15日の公式参拝以前に複数回参拝しています。 (Nippon)
ここから一つの疑問が生じます。
もしA級戦犯合祀そのものが、直ちに首相の靖国参拝を外交問題にする決定的な原因だったのなら、なぜ1979年から1985年までの首相参拝は大きな日中外交問題にならなかったのでしょうか。
この疑問は、靖国問題の成立過程を考えるうえで非常に重要です。
3.昭和天皇も1975年を最後に靖国神社を親拝しなくなった
ここで、もう一つ重要な出来事があります。
昭和天皇は戦後、靖国神社を8回親拝しています。
最後の親拝は、
1975年11月21日
でした。
つまり、A級戦犯が合祀された1978年より3年前です。
したがって、
「昭和天皇はA級戦犯合祀を知ったため、1978年から参拝をやめた」
という単純な説明は時系列上成立しません。
ただし、1978年以降、昭和天皇が1989年の崩御まで一度も靖国神社を親拝しなかったことは重要です。 (Nippon)
さらに2006年に公表された富田朝彦元宮内庁長官のメモには、昭和天皇の発言として、
「だから私あれ以来参拝していない、それが私の心だ」
という趣旨の記録があります。
この発言はA級戦犯合祀と親拝中止を直接結びつける内容と読めるため、1978年のA級戦犯合祀が、その後の昭和天皇の親拝中止の重要な理由だった可能性を強く示す資料とされています。
ただし注意したいのは、これは「1975年に親拝をやめた理由」を説明する資料ではないことです。
1975年――最後の親拝
↓
1978年――A級戦犯合祀
↓
その後――昭和天皇は親拝せず
という順序だからです。
したがって、
「1975年に参拝をやめた理由」と「1978年のA級戦犯合祀後も参拝しなかった理由」は分けて考える必要があります。
4.では、中国はA級戦犯合祀や靖国神社を問題視していなかったのか
ここは、これまでの議論で最も重要な訂正点です。
最初は、
「中国は1985年まで靖国参拝を問題視していなかった」
という見方を検討しました。
しかし、中国側の一次資料、特に『人民日報』を確認すると、これは正確ではありません。
中国側は1985年以前から、靖国神社や首相・閣僚の参拝を問題視していました。
ただし、
「問題視していた」ことと、「日中間の外交問題として公式に追及していた」ことは別です。
この区別が非常に重要です。
5.1980年――『人民日報』はすでに靖国神社を批判していた
1980年8月15日、鈴木善幸首相と多数の閣僚が靖国神社を参拝しました。
これについて、中国共産党機関紙の『人民日報』は8月17日に記事を掲載しています。
記事の見出しは、
「鈴木内閣の閣僚が大挙して『靖国神社』を参拝――社会党など野党は憲法違反と指摘」
というものでした。 (公开数据查询平台)
記事では靖国神社について、
- 戦前は国庫から経費が支出されていた
- 国家と神道の関係があった
- 軍国主義と密接な関係があった
- 戦後は政教分離によって宗教法人になった
という説明がされています。 (公开数据查询平台)
さらに重要なのは、この記事が**「公式参拝」そのものにも言及していること**です。
つまり、
「公式参拝」という言葉や、それが政教分離との関係で問題になるという構図を、中国側が1985年になって初めて認識したわけではありません。
1980年の段階ですでに把握していたのです。
6.1981年――中国側の批判はさらに強まる
1981年にも鈴木首相や閣僚の靖国神社参拝が行われました。
8月17日の『人民日報』には、
「日内閣メンバーの靖国神社参拝が、さらに強い反対を引き起こす」
という趣旨の見出しが掲載されています。 (公开数据查询平台)
つまり、中国側の問題意識は1985年になって突然生まれたものではありません。
靖国神社を、
日本の軍国主義・戦争責任・政教分離
などと結びつけて見る認識は、すでに1980年代初頭から存在していました。
7.1982年――「正式参拝」を軍国主義復活の動向として報道
さらに興味深いのが1982年です。
8月15日の『人民日報』は、日本国内の動向について、
「正式参拝供奉有军国主义分子牌位的靖国神社」
という表現を使っています。
つまり、
「軍国主義者の位牌を祀る靖国神社への正式参拝」
を、日本国内の危険な動向の一つとして扱っているのです。 (公开数据查询平台)
この時期には、靖国神社への「正式参拝」を、教科書問題や軍国主義復活の問題と並べて論じるようになっています。
したがって、
「中国は1985年まで靖国神社を問題視していなかった」
という説明は、一次資料によって否定されます。
8.しかし、なぜ1985年以前には「外交問題」にならなかったのか
ここが本稿の核心です。
中国は靖国を問題視していました。
しかし、
歴代首相の靖国参拝を、日中外交関係の主要な争点として公式に追及することはしていませんでした。
ここには当時の日中関係が大きく関係していると考えられます。
1980年代前半の日中関係は、むしろ非常に良好でした。
1983年には胡耀邦総書記が訪日。
1984年3月には中曽根首相が中国を訪問しています。
1980年代前半の日中関係は「蜜月」と表現されることもあり、歴史認識をめぐる問題が存在しながらも、両国は関係全体を安定させようとしていました。 (Nippon)
つまり中国側には、
「靖国参拝は問題だ」
という認識と、
「それを日中関係全体の外交問題にまで発展させる」
という判断との間に、一線があったと考えることができます。
9.中曽根首相は1985年8月以前にも何度も靖国を参拝していた
ここで非常に重要なのが中曽根首相自身です。
中曽根首相は、1985年8月15日の公式参拝以前にも、何度も靖国神社を参拝しています。
1983年から1985年4月までにも、
- 1983年4月21日
- 1983年8月15日
- 1983年10月18日
- 1984年1月5日
- 1984年4月21日
- 1984年8月15日
- 1984年10月18日
- 1985年1月21日
- 1985年4月22日
と参拝しています。 (Hermes Repository)
ところが、これらは1985年8月15日の参拝ほど大きな日中外交問題にはなりませんでした。
特に重要なのが、
1985年4月22日
です。
この日にも中曽根首相は靖国神社を参拝しています。
それから約4か月後、
8月15日の参拝だけが「公式参拝」として大きな問題になった。
ここに、1985年の転換点を見ることができます。
10.何が変わったのか――「参拝」から「公式参拝」へ
中曽根首相が実現しようとしたのは、単なる首相個人の参拝ではありませんでした。
政府として、
「内閣総理大臣としての資格で参拝する」
という形を明確にしたのです。
そのため1984年には「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」、いわゆる靖国懇が設置されました。
そして1985年8月9日、靖国懇が報告書を提出。
さらに8月14日、藤波官房長官が、
「内閣総理大臣は靖国神社に内閣総理大臣としての資格で参拝を行う」
と正式に発表しました。 (世界と日本)
政府は、参拝の目的は戦没者の追悼であり、政教分離原則にも抵触しないという論理を構築しました。
つまり問題の性質が、
「首相が靖国神社に行く」
から、
「国家の代表である首相が、公的資格で宗教法人である靖国神社を公式に参拝する」
へと変わったのです。
これは国内の憲法問題としても、国際的な歴史認識問題としても、意味が大きく違います。
11.そして1985年8月7日――朝日新聞が「靖国問題」を大きく取り上げる
ここで朝日新聞が登場します。
1985年8月7日、朝日新聞は、
「『靖国』問題 アジア諸国の目」
という特集を掲載しました。
つまり、中曽根首相の8月15日参拝を目前にして、靖国神社を単なる首相参拝の問題ではなく、「靖国問題」そのものとして取り上げたのです。
ここは非常に重要ですが、慎重な表現が必要です。
「朝日新聞が初めて靖国を問題にした」とまでは、現時点で確認した資料だけでは言えません。
一方、
1985年8月7日の朝日新聞が「靖国問題」を大きく取り上げたこと
は確認できます。
そして、その直後に中国側の動きが始まります。
12.8月11日――『人民日報』が日本の新聞報道を取り上げる
1985年8月11日、『人民日報』には、
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【▲上記の記事からの続き▼】
「『朝日新聞』が日本首相の靖国神社参拝予定を明らかに――国内で強い反応、野党は反対を表明」
という趣旨の記事が掲載されています。
ここで重要なのは、中国側メディアが日本国内の新聞報道を情報源として取り上げていることです。
つまり、
日本国内での「靖国問題」の報道
が、
中国側にも伝わっていた
ことは確認できます。
ここから、
8月7日 朝日新聞
↓
8月11日 人民日報
↓
8月14日 中国外交部
という短期間の情報連鎖が生まれます。
13.8月14日――中国政府が初めて公式に反対を表明
そして8月14日、中国外交部の記者会見で、靖国神社について初めて公式な懸念が表明されます。
『人民日報』に掲載された新華社電によれば、記者は、
中曽根首相らが8月15日に政府公職者として初めて正式に靖国神社を参拝すると日本の新聞が報じているが、中国側はどう考えるか
と質問しています。
これに対して中国外交部報道官は、
中曽根首相らが靖国神社を参拝すれば、世界各国、とりわけアジアの人々の感情を傷つける
という趣旨の見解を表明しました。
さらに靖国神社には東條英機ら戦犯が祀られていることにも言及しています。 (公开数据查询平台)
ここで初めて、
靖国神社への首相参拝が、中国政府の外交上の公式発言になった
わけです。
14.8月15日――中曽根首相が「公式参拝」
そして8月15日。
中曽根首相は靖国神社を、
「内閣総理大臣としての資格」
で参拝しました。
政府はこれを公式参拝と位置づけました。 (世界と日本)
ここで、
国内の政教分離問題
と
中国側の歴史認識・戦争責任問題
が結びつきました。
そして靖国神社は、単なる国内の慰霊・追悼施設をめぐる問題ではなく、日中外交の問題になっていきます。
日本政府自身も1986年の外交青書で、1985年8月15日の中曽根首相らによる靖国神社公式参拝について、中国側から「中国人民の感情を傷つける」との批判があったことを記録しています。 (外務省)
15.では、「朝日新聞が問題化したから中国が反応した」のか?
ここは最も慎重に考える必要があります。
確認できる事実は、
8月7日
朝日新聞が「靖国問題」を特集。
8月11日
人民日報が日本の新聞報道を取り上げる。
8月14日
中国外交部が公式に懸念を表明。
8月15日
中曽根首相が公式参拝。
という時系列です。
これはかなり明確です。
しかし、
「朝日新聞の記事を中国政府が読んで、それをきっかけに靖国問題を作った」
とまでは言えません。
なぜなら、中国側は1980年代初頭からすでに靖国神社や「正式参拝」を問題視していたからです。
したがって、
「朝日新聞が中国に靖国問題を教えた」
という説明は、資料からは支持できません。
むしろ、
中国側は以前から靖国問題を認識していた。しかし、それを日中間の外交問題として公式化することは控えていた。1985年に中曽根首相が公式参拝を実施しようとしたことで、その問題意識と日本国内の議論が接続し、朝日新聞などの報道も含めた日本国内の反応を中国側が取り上げ、外交問題として公式化した。
と考える方が資料に合っています。
16.それでも「公式参拝」が転換点だったことは重要
では、結局何が靖国問題を国際問題にしたのでしょうか。
私は、ここを一つの原因だけで説明するのは適切ではないと思います。
しかし、最大の転換点の一つとして、
「中曽根首相が公式参拝を実施しようとしたこと」
を挙げることには十分な根拠があります。
なぜなら、
1978年
A級戦犯合祀
↓
1979~84年
A級戦犯合祀後も歴代首相が靖国神社を参拝
↓
1985年4月
中曽根首相が参拝するも、大きな外交問題にならない
↓
1985年8月
「内閣総理大臣としての公式参拝」を明確化
↓
国内で政教分離・憲法問題が大きくなる
↓
朝日新聞が「靖国問題」を大きく報道
↓
中国側メディアが日本の報道を取り上げる
↓
中国政府が初めて公式に反対
↓
8月15日
中曽根首相が公式参拝
という流れだからです。
17.「朝日新聞が問題化しなければどうなったか」は反実仮想
ここは記事を書くうえで、特に断定を避けるべきところです。
「朝日新聞が問題化しなければ、靖国問題は存在しなかった」とするのは、さすがに言い過ぎです。
なぜなら、中国側は1980年代初頭から靖国神社を問題視していたからです。
また、日本国内でも政教分離の問題は存在していました。
1980年には政府自身が靖国神社への公式参拝と憲法20条との関係を検討していました。1985年の公式参拝実施後、政府は従来の政府統一見解を変更し、公式参拝は憲法20条3項の「国の宗教的活動」には該当しないという立場を示しています。 (参議院)
したがって、
朝日新聞が問題化しなければ、国内問題そのものが存在しなかった
とは言えません。
しかし、
朝日新聞を含む日本国内の報道が問題を大きく可視化し、それが中国側に伝わり、中国政府が外交的に反応するきっかけの一つになった
という評価は可能です。
そして、その背景には、そもそも中曽根首相が「公式参拝」という、それまでとは異なる性格の参拝を実施しようとしていたことがありました。
18.「中国が利用した」という表現について
「中国が朝日新聞の報道を外交的に利用した」という表現にも、少し注意が必要です。
中国政府が靖国問題を外交問題として利用した、と評価すること自体は政治的な分析として可能です。
しかし、歴史研究としては、
中国が最初から外交カードとして利用する目的で朝日新聞を利用した
と断定するには、中国政府内部の意思決定資料などが必要です。
現時点で確認できる資料から言えるのは、
中国側は以前から靖国を問題視していた。
1985年8月、日本国内で公式参拝をめぐる議論が高まり、朝日新聞などが大きく報道した。
人民日報は日本の新聞報道を取り上げた。
その数日後、中国外交部が公式に反対を表明した。
という事実です。
したがって、「利用した」と断定するより、
「日本国内の報道・政治状況を中国側が外交問題化する際の材料として取り込んだ」
程度の表現の方が、史料に忠実です。
19.では、靖国問題は「いつ」国際問題になったのか
ここまでを整理すると、私は1985年8月を一つの決定的な転換点と考えるのが妥当だと思います。
ただし、問題が一日に突然生まれたわけではありません。
第1段階:1978年
A級戦犯合祀
靖国神社の性格をめぐる問題の大きな前提が生まれる。
第2段階:1979~84年
首相参拝は継続
中国側には批判的認識が存在する一方、首相参拝そのものは日中外交の主要争点にはならない。
第3段階:1980~82年
政教分離・公式参拝問題が国内外で認識される
『人民日報』も靖国神社や「正式参拝」を批判的に報道する。
第4段階:1985年
中曽根首相が公式参拝を実施
ここで「首相の靖国参拝」が国家的行為として明確になる。
第5段階:1985年8月
日本国内の報道と中国側の外交反応が接続
朝日新聞の「靖国問題」特集
↓
人民日報の報道
↓
中国外交部の公式発言
↓
中曽根首相の公式参拝
という流れが成立する。
20.結論――「靖国問題」は1978年に完成したわけではない
靖国問題を考えるとき、
「1978年にA級戦犯が合祀されたから、靖国問題が始まった」
と説明するだけでは不十分です。
A級戦犯合祀は確かに重要な出来事でした。
しかし、その後も首相の靖国参拝は続きました。
中国側も靖国神社を問題視していましたが、1985年以前には、首相参拝を現在のような外交問題として公式に追及してはいませんでした。
大きな転換点になったのは、やはり1985年の中曽根首相による**「公式参拝」**です。
そして、その直前に日本国内で「靖国問題」が大きく報道され、中国側メディアもそれを取り上げ、8月14日に中国政府が公式に反対を表明しました。
したがって、最も慎重かつ資料に即した表現をするなら、
靖国問題は1978年のA級戦犯合祀を一つの重要な前提としながらも、1985年の中曽根首相による公式参拝を契機として、国内の政教分離・憲法問題と中国側の歴史認識が結びつき、日中間の外交問題として定着していった。
となります。
そして、ここからさらに重要なのは、
「なぜ中曽根首相は、そこまでして公式参拝を実現しようとしたのか」
という問題です。
中曽根首相は、単に靖国神社に行きたかったのでしょうか。
それとも、戦後政治における「国家と戦没者追悼の関係」を変えようとしたのでしょうか。
さらに、なぜ翌1986年には公式参拝を見送ることになったのでしょうか。
1985年の靖国問題を理解するには、この「中曽根首相の意図」まで見る必要があります。
参考資料・一次資料
本稿では、できる限り後世の政治的主張ではなく、当時の政府資料・『人民日報』・外交文書などを重視しました。
- 『人民日報』1980年8月17日:鈴木首相・閣僚の靖国参拝と政教分離について (公开数据查询平台)
- 『人民日報』1981年8月17日:靖国参拝への批判 (公开数据查询平台)
- 『人民日報』1982年8月15日:靖国神社への「正式参拝」を軍国主義復活の動向として報道 (公开数据查询平台)
- 『人民日報』1985年8月15日:中国外交部報道官の靖国公式参拝への反対表明 (公开数据查询平台)
- 藤波官房長官談話(1985年8月14日) (世界と日本)
- 日本政府・1985年公式参拝に関する国会答弁 (参議院)
- 外務省『外交青書』1986年版 (外務省)
- 靖国神社の歴史・歴代首相参拝の整理 (Nippon)
- 1980年代の日中関係と靖国問題に関する研究 (Hermes Repository)
この記事で特に重要なポイント
本稿の結論は、「朝日新聞が靖国問題を作った」というものではありません。
また、「中国は1985年まで靖国を問題視していなかった」というものでもありません。
むしろ、
中国側には1980年代初頭から靖国への批判的認識が存在していた。
その一方で、
首相の靖国参拝は1985年まで日中外交の主要問題にはなっていなかった。
そこに、
中曽根首相の「公式参拝」
という新しい要素が入り、
国内の政教分離問題、朝日新聞などの報道、中国側の歴史認識・外交判断が接続した。
この過程で、靖国神社は国内問題から日中外交問題へと性格を変えていった――。
これが、一次資料を確認したうえでの、現時点で最も妥当な整理です。