宮崎勤元死刑囚は一体何者だったのか?

【スポンサーリンク】

LINEで送る
Pocket

私が、子供の頃に父がよく言っていました。

「もしお前が悪い事をして警察に捕まる様な事があれば お前だけの事では、すまなくなるんだぞ!親や妹や親戚にまで迷惑をかける事になるんだから 決して警察に捕まる様な悪い事はするなよ!」

この父の言いつけを思い起こさせる事件がありました。

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」
昭和63年から平成元年にかけて4人の女の子を殺害した事件!

この事件は、4歳から7歳という低年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付けたり野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなど極めて異常な行動を犯人が取っていたことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件などとの比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された特異性が強い事件でした。

そしてこの事件を起こした宮崎勤元死刑囚の家族や親戚は、不幸のどん底へと突き落とされました。

宮崎勤は両親の他に姉妹二人兄弟二人がいましたが、宮崎勤逮捕後事件には無関係の家族にまで「お前達も死ね」「殺してやる」という嫌がらせの手紙が大量に届いていました。

長女は勤めていた会社に居られなくなり辞職し そして既に決まていた結婚も自ら婚約を破棄しました。同じく次女も在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれ二人の兄弟いずれも辞職しました。

父親の弟は、5つの会社の役員を全て辞職し そして父親の弟2人も仕事を退職した上、次男は持っていた会社を妻の名義に変更し三男には娘が2人おり、宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘達は妻に引き取らせています。母親の兄の2人の息子は警察官、高校教師でありましたが辞職しました。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われています。

家族は宮崎勤の逮捕から1年後に引越をし4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りを付けると、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋30mの高さから飛び降り自殺を遂げています。

宮崎勤一人が起こした事件が、幸せに暮らしていた親、兄弟、親戚にまでに不幸をもたらしたのです。

宮崎勤元死刑囚は一体何者だったのか?

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い宮崎勤は公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な解明には至らないまま1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下り2008年6月17日、東京拘置所で死刑が執行されました!

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の宮崎勤元死刑囚は、私と同じ1962年の生まれで 学年で言えば私の方が、早生まれで一級上になります。

宮崎勤は、東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として生まれていますが、両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れて幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていたということです。

 

宮崎勤は、幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう」という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があり そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴ちょうだいのポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応してくれなかったため「非常に辛かった」と供述しています。

 

小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中だったようですが、クラスの人気者というわけではなかったようです。

勉強は、数学と英語が得意でしたが国語と社会は、苦手だったようです。

中学生時代は1、2年生の時には陸上部に所属していて 3年生の時には将棋部へと替わり、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着したようです。

【▼記事は、下記に続く】

スポンサーリンク


【▲上記の記事からの続き▼】

また通信教育で空手を習っていて 友達に空手の型を見せていたそうです。

1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学しています。当時の宮崎勤を知る同級生は、暗くて目立たない少年だったと証言しています。

高校に入ってからの成績は下降の一途をたどり本人は明治大学への推薦入学を希望していましたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで落ちていたことから、その希望は果たす以前の問題となっていたようです。

高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学して この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあったようです。

1982年の短期大学在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人とともに出かけて アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、すぐさま他の出演者の後ろに隠れ、インタビューを受けることはなかったそうで なんと俳優の川崎麻世とは短大の同級生であったようですが、宮﨑の逮捕時のインタビューで川崎麻世は「僕は記憶力が良い方だし、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」というほど影が薄い存在であったということでした。

1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務しましたが、勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった為1986年3月に勤めていた印刷会社の上司から神奈川県への転勤を勧められましたが本人が拒否した為に自己都合退職(実質的には解雇)となったようです。

その後は、家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたようですが、自室にこもる生活が数ヶ月続き9月ごろから家業を手伝い始めるようになりますが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであったようです。

この頃アニメの同人誌を発行していますが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっています。

その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになりますが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなく ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていたようです。

逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明しています。

1988年5月16日、祖父が死去。

そして同年8月22日に第一の犯行(4歳の女児)誘拐・殺害
1988年10月3日第二の犯行(7歳の小学1年生女児)誘拐・殺害
1988年12月9日第三の犯行(4歳の女児)誘拐・殺害
1989年6月6日第四の犯行(5歳の女児)誘拐・殺害 を起こしています。

1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品しています。
この事が、都市伝説を生んだようで 晴海のコミックマーケットに取材に来たレポーターまはは、記者が会場内に来ている人達を指して「ここに十万人の宮崎勤がいます」とレポーターが発言または、そういう記事を書いたという事です。しかしその様な証拠は、未だ見つかっておらず都市伝説となっている様です。

また宮崎事件でマンガやアニメを趣味とする読者に対して「おかしな連中」といった風潮になり、1991年以降は創作にもバッシングの対象が広がり、オタク=犯罪者というような社会の空気ができてしまいました。

漫画オタクにとっては、受難の時代となりました。

宮崎勤元死刑囚は、死刑になる約1年前の2007年の書簡に「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」と記して薬物注射による死刑の導入を訴えていたということです!

また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特に無い。いいことが出来て良かったと思う」と答え宮崎勤の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであったということです。

これらの事から私が思うには、宮崎勤という人間は自己中心的で何かに興味を持つとそれに没頭し他人とのコミュニケーションを上手くとれない事からサークルの仲間からも嫌わられ そして手の障害のコンプレックスにより 彼女を作れずその事から性の対象が、成人女性から幼女に移り小さい頃から世話をしてくれた祖父の死去が、宮崎勤にとって何かの転換点となりこの様な事件を起こしたのではと感じた事件でした。

参考:ウィキペディア

LINEで送る
Pocket

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ にほんブログ村 美容ブログ 理容室・床屋へ

スポンサーリンク
スポンサーリンク

※コメントを残すには、枠内をクリックしてください!