8月7日の朝、従兄の姉から電話がかかって来ました。
何事だろうと思い一瞬もしかして おばさんが・・・・と頭をかすめました。
すると従兄が亡くなったという知らせで
「な・ なんで・・・」としか言葉が出てきませんでした。
まだ若いのに私より4歳年上で60歳です。
胃がんだったという事でした。
実は、先月7月に従兄と電話で話をしたばかりでした。
ほとんどと言っていいほど 今までは従兄 に電話で連絡を取る様な事はありませんでした。
しかし今回は、7月の西日本豪雨災害で従兄の住んでいる松野町松丸でも被害があったという話を聞いたので それで大丈夫だったかどうかの電話をかけた次第です。
その時は、普段とかわらず元気そうに話をしていました。
なのでその電話での会話が、従兄との最後の会話となってしまいました。
もし7月の西日本豪雨災害が、なければ従兄に電話をする事は無かったので虫の知らせではないが何か不思議さも感じています。
久しぶりに従兄と話した事で 従兄の住んでいるところは、私の母の里でもありますから 暇を見つけて母を連れて久しぶりにおばさんに会いに行ってみようかなと思っていたところでした。
亡くなってしまうと昔の頃が懐かしく子供の頃母の里に行って従兄によく遊んでもらった事を思いだします。
私より4歳年上だったので「かずひら兄ちゃん」って呼んでいました。
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【▲上記の記事からの続き▼】
母の里は、昔は造り酒屋でしたのでお酒を作っていた蔵がありました。
私が、子供の頃には既に廃業していて造り酒屋はしていませんでしたが、その蔵に入って兄ちゃんが、蔵の中で基地を作っていたのを見せて貰ったり 蔵の外に蜂の巣があり それを兄ちゃんが取って蜂の巣の中の蜂の子を生で食べていて 私にも勧められましたが、私はそれを食べる事が出来なかった事や 裏の空き地に土蜘蛛を取りに行って相撲をさせたり 夏休みに里へ行くとカブトムシを沢山取ってくれていて それを貰ってとても嬉しかったことなどを思いだします。
そして兄ちゃんは、私と違って子供の頃から成績優秀で 運動神経もよく勉強室には、理科で使うフラスコやビーカー試験管などの実験用具が置いてあったりまた伝書鳩も飼っていました。
大人になってからの想い出は、6年前に偶然ライブハウス(MARKハウス)で会いそこで兄ちゃんが、YOSHIKOさんのギターの伴奏で松山千春の歌を唄っていた事があり けっこう上手いなと関心して聞いていました。歌い方も松山千春に似ていましたが、風貌も松山千春そっくりでした。
教師になって最初の学校が、宇和島市立城東中学の数学の先生でそして最後は、校長として宇和島市立城東中学が最後で家庭の事情で定年を待たず退職しました。
通夜では、大勢の人が参列され最後の対面では、涙を流されている人が多くホントに教師として皆に慕われていたんだなぁとその光景をみていてその事が良くわかりました。
退職しているにも関わらず告別式にも大勢の方に参列して頂いていました。
私の亡き父が言っていたのですが「人は死んで初めてその人の価値がわかる」という事を言っていましたが、父の言っていた事が、この様子を見ていて実感できました。
ただ かずひら兄ちゃんの一番の心残りは、年老いた母を残し先に旅だってしまったという事だと思います。
ご冥福をお祈りいたします。