昨日は、正月に観ようと思って購入していました日本沈没(1973年の映画版)のDVDを観ました。
昔、レーザーディスクで日本沈没を購入していましたが、今はレーザーディスクプレイヤーが壊れて動かないのでレーザーディスクの日本沈没を見ることができません。
レーザーディスクでは、一度観ていたのですが、内容はほとんど覚えていませんでした。
また画面サイズは、シネマスコープサイズでしたので55インチのテレビ画面でも映像サイズは小さくなってしまいました。
日本沈没を見ていて発見がありました。
それは、日本沈没の原作者の小松左京が、日本沈没に出演されていました。
冒頭で小野寺と吉村が打ち合わせをしているシーンでカメオ出演していました。
カメオとは、瑪瑙、大理石、貝殻などに浮き彫りを施した装飾品・工芸品のことですが、業界用語では、俳優や歌手、監督、漫画や小説などの原作者、時には政治家やスポーツ選手などがゲストとしてほんの短い時間、映画やドラマ、アニメ、舞台に出演することを言います。
そして懐かしく思ったのが、地球物理学者の竹内 均(1920年7月2日 – 2004年4月20日)が、日本沈没に出演されていたことです。
竹内均さんは、昔テレビ番組で科学を子供にも分かり易く説明されていた記憶があります。
独特のフチの厚いメガネがトレードマークの科学者でありましたのでとても印象に残っていました。
そして時にユーモアを交えながら落ち着いた話しぶりで、その独特の口調はタモリに「歩くヨーデル」と評されていました。
竹内均は、東大退官後に自ら創刊した科学雑誌『Newton』初代編集長で 掲載自伝において、日本沈没に出演したことで「迫真の演技である、として皆にからかわれた」とそうです。
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【▲上記の記事からの続き▼】
彼が科学者を目指したのは寺田寅彦に憧れてのことだったいうことです。
寺田寅彦は、ウィキペディアによると高知県出身で戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村 冬彦、寅日子、牛頓、藪柑子の筆名でも知られる。とあります。
竹内均は、寺田寅彦が残した「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉を胸に抱き、関東大震災以降、災害に、特に地震に無頓着であった日本国民に警鐘を鳴らし続けたました。
「天災は忘れた頃にやってくる」って寺田寅彦が最初に行った警句だったんですね!
竹内の専門であるプレートテクトニクスに基づく科学的な地震学を広めようとしましたが、十分に国民に浸透する前に彼が恐れていたことが現実となり1995年に兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災が発生しました。
その結果、彼の目的は期せずして達せられましたが、テレビなどマスコミにプレートテクトニクスを知らない「にわか地球物理学者」が登場し、誤った科学知識を広めたので、よりいっそう本の出版など、科学の啓蒙活動に力を入れたそうです。
彼は売れっ子作家なみに数百冊に及ぶ多くの書物を書いていてなんと著書は約450冊にもなるそうです。
そしてそれは専門の地球物理学のみならず、一般科学から「修身」など人の生き方についてまで多岐にわたり また彼の書物の書き方も独特で、原稿用紙やペンは使わずテープレコーダーに「原稿」を吹き込んで 彼の秘書が原稿に起こすという手法(口述筆記)を取っていたと言う事です。
それゆえ多量の書物を短期間で上梓する事が出来き当時このような方法で原稿を「書く」作家はほとんどいなかったそうです。
彼は彼の書籍「私の知的鍛練法」徳間書店(1980)の中で その「書き方」を詳しく説明していて この手法のため当時彼が使用していたテープレコーダーの製造会社(ソニーと思われる)に、話の記録を一時的に止める「ポーズ(pause)ボタン」の機能を付ける事を提案したそうです。
日本沈没を観て懐かしい人「竹内均さん」が出演されていた事を思い出しました。