私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その3の続きになります。
【「松野町商工誌」の中に描かれていた明治・大正の地図】
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ネットで見つけた上記の情報なのですが、「嫁は吉田家に嫁ぎ」という説明の謎が解けました。
やはり「嫁」ではなく「娘」の書き間違いでした。
市立図書館で「松野町商工誌」を確認したところネット情報の文章に間違いがある事がわかりました。
そして「正木正光酒造場」の前の事もわかりました。
法務局で確認するまでもなくこれも「松野商工誌」の明治時代の松丸の明治中期から後期の地図(松丸商店分布概況)や図から確認できました。
その図が、これです。
説明書きに▲竹葉類造 酒造場(明治初年)現「正木正光酒造場」と書かれています。
そして明治時代の地図にも「竹葉類造 酒造場」と記載されていました。
その頃は、まだ鉄道もなく松丸駅もありませんでしたので 駅から「正木正光酒造場」へ突き当たる道もできていませんでした。
まだその頃は、田んぼだったようです。
その明治時代の地図で確認すると 今の「正木正光酒造場」の場所に私の母の実家の吉田の名前の掲載はありませんでしたが、その場所には、竹葉類造(酒造)と掲載されていました。
大正末期から昭和初期の頃の松丸地図
大正末期には、竹葉酒造は無くなり「正木正光(酒造)」となっています。
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この文章に出てくる私のお祖父さん「吉田光男」が、酒造りを進めていたという竹葉酒造場です。
竹葉が、絶えたあと私のお祖父さん「吉田光男」が、あとを引き継いだ形で酒造りをしていたという事になるのか?そこの事情がよくわかりませんが、あそこの家で「吉田光男」は、酒造りをしていたという事は、間違いないよです。
なので吉田の家だったという事も間違いというわけでもなさそうです。
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【▲上記の記事からの続き▼】
詳しい事情を知るには、やはり登記簿を見てみる必要がありそうですね。
「吉田光男」は、竹葉酒造の名前で酒を造っていたのかもしれません。
母から以前聞いていた吉田が、作っていたお酒の銘柄は、「吉の光」と「松の露」だったと聞いています。
竹葉酒造場の名前で酒を造っていた事が分かると以前、税務署の酒類資料館で吉田酒造の事が分からなかった事の説明もつきます。
この調査を始めた時に まず最初に酒の事は、税務署に聞いたら分かるかもと思い税務署に問い合わせをしました。
すると「そうい事でしたら酒類資料館に問い合わせてみて下さい」と連絡先を教えて頂きました。
こちらで明治から大正時代の松丸で 吉田酒造について聞いたところ、吉田酒造では見つかりませんでした。
ということは、「竹葉類造(酒造)」の名前で造っていたという事であれば吉田の名前では、分からなかったという理由も納得します。
そして大正末期の地図を見るとその場所は、「竹葉類造(酒造)」から「正木正光酒造」になっていました。
そして「吉田光男」の名前は、私が知っている母の実家の場所で「吉田光男(酒)」と記載されていました。
ということは、大正末期には、酒造はもうやめて酒の小売りをしていたのか?
そこで宇和島小売酒販組合に問い合わせて調べて頂くと販売業者名簿は、昭和13年のが一番古く この名簿には、私のお祖母さんの名前が販売者という事で登録してあるという事がわかり明治村松丸昭和13年6月23日まで宇和島税務署へ届け出分と載っていました。
ただ販売者の名前しかなくお店の名前は載っていないという事でした。
残念。
でも何故お祖父さんの名前ではなくお祖母さんの名前で登録したのかも謎です。
父や母からは、戦前か戦中に酒造りをやめたという事を聞いていましたのでいつ酒造をやめたのかも知りたいところです。
同級生の高村酒店で聞いてみたら 酒造をしていたら販売もできるので 酒を造りながら販売もしていた可能性もあるという事でした。
という事は、酒造の方の登録は、お祖父さんの名前で 販売の登録は、お祖母さんの名前で登録していたという事なのかなぁ?
あと謎が残るのは、竹葉から吉田家に嫁いだ娘は、誰なのかです。
私のお祖母さん「吉田光男」の妻の旧姓は、戸籍を見ると「竹葉」姓ではありませんでした。
真実を知るには、もっと前の戸籍謄本を取る必要がありそうですね。