六曜

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その11

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その10)の続きになります。

【「町の吉田酒屋」ってどこなの?】

とりあえず私の母の実家の原戸籍と 私のおばあさんが、子供の頃に住んでいたという吉田の家だったとされる竹葉酒造(現・正木正光酒造場)の閉鎖登記簿の入手もできましたので こんどは、曾祖父が建てた隠居所(母の実家)は、いつ頃、建てたのか? そして その隠居所の庭に酒蔵を作ったのはいつ頃か?

について調べてみようと思います。

とにかく分かりそうなところから資料を集めて 集まった資料を整理していく事により 何かが見えてくると思います。

不器男句文集での日記で「裏の吉田では・・・」と書かれていますので 曾祖父が隠居所を建てる前から その場所(母の実家となる場所)は吉田の土地だったという事になります。

この日記は、大正12年(1923年12月4日)に書かれたものです。

不器男句文集:芝不器男 [著],塩崎月穂 編([寒い話:本P67上段])

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつたが、大方そのためだらう、ミノルカが三羽ばかり飼ってあつた棚は、すでに取りのけられて居た。中の密柑の青黒い葉は、ほこりでよごれて灰色になつてゐる。そして地面も当り前の色ではない。これも寒い。

この日記が、大正12年(1923年12月4日)に書かれたものという事で 2つの疑問が生まれました。

1つは、「町の吉田酒屋では・・・」という書き方をされていますので 竹葉酒造(現・正木正光酒造場)が、吉田酒屋だったと私は、想像するのですが大正末期から昭和初期の松丸の地図には、そこの場所は、既に正木正光酒造場と記載されています。

閉鎖登記簿で確認してもその当時その場所には、所有の氏名欄には、吉田の名前は出ていません。

なので大正12年頃の「町の吉田酒屋」ってどこなの? という疑問です。

大正12年に母の実家が建っているのであれば そこが吉田酒屋になるのでしょうけど不器男句文集での日記では、大正12年にはまだその場所には建ってない事が証明されています。

そしてもう1つの疑問は、不器男句文集の日記には、「町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた・・・・」というくだりがありますが、ここでいう吉田酒屋の老夫妻とは、私の曾祖父とその妻のクラさんの事だと思いますが、原戸籍を調べて分かった事ですが、クラさんは、大正9年の2月に亡くなられています。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

なので大正12年に「老夫妻がそこに 隠居所を建てる」という表現は合いません。

また曽祖父が、クラさんが亡くなられたあとに再婚したという記録も原戸籍にはありません。

私の祖父吉田光男とおばあさんもこの時期は、光男28歳おばあさん24歳なので吉田酒屋の老夫妻という表現は当てはまりません。

こうなると不器男句文集での日記の大正12年(1923年12月4日)という日付は正しいのだろうかという疑問が生まれます。

普通日記であれば年月日は、記入しますから間違いはないと思うのですが、それにより日記と原戸籍の事実に矛盾が起こります。

とりあえず大正12年が正しいとするとそれ以降に隠居所を建てた事は推測できます。

実際に母の実家は建っていましたので。

そして従姉から聞いた話では、隠居所の庭に酒蔵を建てたのは、私の祖父の吉田光男の時代で その頃はには吉田家には酒蔵を建てる財力は無くなっていたという事で 吉田光男の実家は、庄屋で山も持っていたという事でそこから資材を援助してもらって建てたという事でした。

その酒蔵を建てたのが、いつなのかも知りたいところです。

という事で 今度は、母の実家の閉鎖登記簿を取らなくてはなりません。

私の母の実家は松丸随一の豪商その12

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

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