前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その17)の続きになります。
【明治初年の改名】
国立国会図書館デジタルコレクションから探した本で「高山浦庄屋史料:田中家資料」の中のコマ番号35(P67)※「慶應四戊辰閏四月改準席牒」の中の「御目見苗字帯刀庄屋格」の「松丸」の中に「吉田喜兵衛」の名前を見つけました。
※(牒(ちょう)とは、律令制における公文書の様式の1つ 。)
この人が、母の実家の吉田家のご先祖様になるんだと思います。
その松丸の中には、竹葉類右衛門、正木又兵衛、竹葉弥兵衛の名前もありました。
前回「私の母の実家は松丸随一の豪商?!その16」で書きました吉田屋の当主、吉田精三の父は、「吉田喜平」と「吉田喜兵衛」は、同一人物なのか?についてですが、同一人物であるかもしれないという事実が判明しました。
明治3年に平民に苗字を許され それと前後して一部の名前が禁止されました。
明治の時代になると、諱と通称を併称することが公式に廃止され、すべての人が戸籍に「氏」と「名」を登録することになりました。
庶民に対しても明治3(1870)年、「平民苗字許可令」が発令され、それまで貴族や武士たちしか公称することができなかった苗字が、庶民にも公称することが認められました。
よく江戸時代の庶民は苗字を持っていなかったと誤解されがちですが、それは誤りで公的に名乗らなかっただけで、本当は苗字を持っていた庶民も多かったということです。
ところが、「平民苗字許可令」が発令されていても、一部の人たちは苗字を名乗りませんでした。
その理由は、苗字を付けると税金が上がるのではと思われていたそうです。
その後、明治8(1875)年に「平民苗字必称義務令」がだされたことで、国民すべてが苗字を名乗ることが義務付けられました。
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【▲上記の記事からの続き▼】
「下の名前」に関しても大幅な変更がなされました。
明治2(1869)年、政府は、兵衛・助・介・輔・丞・進・右衛門・左衛門・大夫など古代の官職に由来する名前や、国名を使った受領名などを名乗ることを禁止した布達を出しました。その結果、全国の士族や庶民が下の名前も一斉に改名することになったようです。
この時に改名する場合以前の名前の最初の一字は、残して兵衛・右衛門・左衛門の代わりに別の字を付ける人が、多かったようです。
中には、例外もあり以前の字は、使わず新しい名前を付ける人もいたそうですが、それは稀にだったそうです。
ということで吉田精三の父と思われる「吉田喜兵衛」は、「吉田喜平」と同一人物である可能性が高くなりました。
明治2(1869)年、政府は、「兵衛・助・介・輔・丞・進・右衛門・左衛門・大夫」などの名前が使えなくなったということで「吉田喜兵衛」も「兵衛」が、使えなくなり「兵衛」を「平」の字に変えて「吉田喜平」と名乗るようになったんだと思います。
松野町役場の図書コーナーに置かれている「芝家文書調査報告」の中に書かれている記述で「吉田喜兵衛は、近代松丸随一の豪商として知られていた吉田屋の前身と考えられ紙や蝋を大阪と直接取引をしたとある。」と書かれているのは、吉田精三の父である「吉田喜平」と結論付けられるのではないかと思われます。