六曜

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その21

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その20)の続きになります。

【「杉本家文書」より「吉田竹兵衛」の名前が!】

松野町教育委員会のKさんより吉田家についての新しい情報を頂きました。

町誌の酒造の項には、「杉本家文書」の慶応二年の庄屋の外御目見書に、「松丸吉田竹兵衛同正木又兵衛」の名があり、」
とあり、慶応二年(1866)にも吉田が造酒屋だったことがわかります。

という情報を頂きました。

また「芝家文書」の中に文久元年(1861)8月に書かれた「去申八月より当酉七月迄中用仕出牒」(村の支出)を見てみると、吉田喜兵衛が100 匁、とあり、これは、正木、吉良に次ぐ3番目の金額で、吉田が豪商だったことを物語っています。

吉田喜兵衛は近代、松丸随一の豪商として知られていた吉田屋の前身と考えられ、紙や蝋を大阪と直接取引したとあります。この他、米、酢、茶、椎茸、箸、土瓶、貝柄杓、火縄、鉄砲薬、七嶋、燈明、炭など、食品から炭まで多様な商品の記載がありました。

と「芝家文書」の中にこのような事が書かれている事も教えて頂きました。

そして「吉田喜兵衛」と「吉田竹兵衛」は、同時代に生きた可能性があるということです。

という事は、吉田喜兵衛が、吉田屋の前身と考えられるということですので吉田の本家のご先祖様であることが分かりました。

そうなると今回新しく登場してきた「吉田竹兵衛」が、私の母の実家の分家の「サヨ」の夫になるのかなと想像しています。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

家系図

Kさんも「杉本家文書」より 「吉田竹兵衛」が、造酒屋だったことがわかりますと述べられていますので母の実家のご先祖様に間違いないと思います。

ただ母の実家が、最初現在の正木正光酒造場であったのかを閉鎖登記簿で調べた結果明治32年以前のモノは破棄されていて確認できませんでしたので確証がつかめませんでした。

現在の正木正光酒造場の前は、竹葉酒造であったことは、明治時代の地図で確認できましたので そうなると竹葉酒造の前に吉田が、酒造りをしていたのか?という疑問が残ります。

「吉田竹兵衛」は、どこで酒造りをしていたのかが、知りたいところです。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その22

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

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