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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その12

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その11)の続きになります。

大正時代に消えた松丸随一の豪商だった松丸の吉田屋

【吉田家家系図】

吉田家家系図

私の曾祖父は、竹葉類蔵の二男で前戸主の吉田サヨの養子になって吉田家の家督相続をしています。

曾祖父とクラさんが、離婚した理由は、もしかして父から聞いていたあの事が原因なのではと 原戸籍から情報を読み取って作った曾祖父の年表と 閉鎖登記の旧土地台帳を見ながら考察してみました。

すると有る事が見えてきました。

松丸明治時代地図

私が集めた原戸籍には登場しない吉田姓の人から「岡田惣十郎」に所有権が移転した年月日は、明治32年10月31日となっています。

また違う地番号で竹葉類蔵から岡田忠一郎に所有権移転した年月日は、明治33年8月28日です。

そして私の曾祖父とクラさんが、離婚したのが、明治34年9月10日となっていました。

これら一連の流れが明治32年、明治33年、明治34年と続いています。

原戸籍には登場しない吉田姓の人が、吉田サヨさんのご主人だと考えると

私が、子供の頃に父から聞いていた話では、母の実家の吉田は、請け判をして財産を減らしたと言っていましたし従姉の話では、それもあったかもしれんけど株で失敗したという話を聞いている様でした。

それらが理由で土地や建物を手放さなくてはならなくなったのが、この明治32年から33年の時期だったのではないかと想像し その事により明治34年にクラさんと離婚する事になったのかとも想像できます。

そして 松丸随一の豪商だった松丸吉田屋は、明治時代には、松丸に3軒も店を出していたのに大正時代の地図には、1軒も載っていませんので 商売に失敗して潰れたのかもしれません。

そして吉田家の財産を減らしたのは、松丸随一の豪商だった吉田屋の請け判をしていたのでは?とも考えられます。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

従姉の話では、母の実家の吉田家は、分家で吉田屋が本家にあたるという話をしていました。

ただ私が集めた戸籍からは、吉田屋に繋がる人名の登場は有りませんでしたので 本家分家の関係なら江戸時代に分かれた事になります。

もし吉田サヨさんの上の戸籍が取れたら何か吉田屋に繋がる情報が得られたのかもしれません。

その後クラさんとは、一度離婚してまた大正7年に再婚しているという事は、何かの便宜上、離婚しておく方が良かったのかなとも思ったりもします。

そしてこの後、明治37年に 私のおばあさんが、吉田家の養女に7歳のときに入っています。

戸籍上は、7歳なのですが、従姉が聞いた話では、赤ちゃんのときに養女になったという事でした。

【おまけ】

国立国会図書館([松野町誌]須田武男 著, 松野町, 1974年,コマ番号745 本P1451 URL:https://dl.ndl.go.jp/pid/9769446/1/745)から得た情報では、私の曾祖父の父親の竹葉類蔵は、1830年天保元年12月26日近永村の九十郎(川添)の三男に生まれ松丸村の一之進(竹葉)の養嗣ようしとなっています。そして松丸村戸長や郵便局長を務め1893年 明治26年から明治27年の間明治村長を務めていました。

この竹葉類蔵も竹葉家に養子に入っていたんですね。

昔は、養子が多いですね。

【曾祖父の年表】

曾祖父の歳 西暦 元号 出来事
0歳 1862年 文久2年4月8日 生まれ
19歳 1881年 明治14年12月30日 竹葉より吉田サヨの養子に入る
19歳 1881年 明治14年12月30日 吉田の家督相続
25歳 1887年 明治20年4月26日 クラ入籍
39歳 1901年 明治34年9月10日 クラ協議離婚
42歳 1904年 明治37年3月29日 7歳の祖母と養子縁組 入籍
56歳 1918年 大正7年11月25日 クラと再婚入籍
56歳 1918年 大正7年11月25日 祖母は、最初の夫と婚姻
57歳 1919年 大正8年5月13日 祖母は、最初の夫と協議離婚
58歳 1920年 大正9年2月15日 クラ午前7時30分死亡
59歳 1921年 大正10年7月18日 吉田光男養子に入り祖母と婚姻
61歳 1923年 大正12年12月4日 町の吉田酒屋の老夫婦が隠居所を建てる噂が
65歳 1927年 昭和2年2月4日 午前9時死亡

 

私の母の実家は松丸随一の豪商その13

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その10

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その9)の続きになります。

【吉田クラの実家と母の実家とはどういう関係?】

このテーマでブログを書くきっかけとなったのは、私の母が亡くなった事で昔、父から聞いた話を思い出した事でした。

母の実家は、昔は造り酒屋で父の話では、「松丸から見える山々は、すべて母の実家の山だった」とか「広見川が、逆さに流れても吉田は潰れん」と周りからは、言われていたという豪商だったそうです。 しかし人の請け判などをして財産を減らして落ちぶれてしまったという話でした。

従姉から聞いた話では、請け判ではなく株で失敗いしたと話していました。

それでは、今までに分かった事を整理してみます。

私が、集めた原戸籍で一番古い戸籍の戸主こしゅは、女性で 吉田サヨという方でした。

曾祖父の名前で取ったので「前戸主 亡養母 吉田サヨ」と書かれていました。

これより古い戸籍は、廃棄されていてこれより以前の情報はわかりま せん。

なので吉田サヨさんが、何年生まれで夫が誰で何歳で亡くなったのかの情報が一切書かれていません。

この吉田サヨさんの養子に入ったのが、竹葉類蔵(竹葉酒造)の二男の私の曾祖父になります。

それでのちの私の祖父吉田光男が、竹葉酒造でお酒を造る事になるんですね。

曾祖父は、文久2年の生まれになります。

吉田家に養子に入ったのが、明治14年でした。

という事で吉田サヨさんは、曾祖父の養母になります。

養子に入った曾祖父が、吉田家の家督相続を受けたのが、養子に入ったその日となっていました。

なので曾祖父の養母となった吉田サヨさんが、亡くなった日は、曾祖父が養子に入った日ではないかと思われます。

そして曾祖父が、婚姻したのが25歳の時で明治20年にクラさんが入籍しています。

このクラさんが、最初に竹葉家から嫁いだというトラさんと勘違いしていた人になります。

なので「松野町商工誌」に書かれている情報には、誤りがある事がわかりました。「竹葉酒造から吉田に娘が嫁いだ」のではなく「竹葉類蔵の二男が吉田へ養子に入っている」というのが事実です。

そして明治34年に曾祖父は、クラさんと協議離婚をしています。

なぜ離婚したのでしょうか?

クラさんに子供が出来なかったからでしょうか?

その3年後の明治37年に 私のおばあさんが7歳のときに養女として吉田家に入籍しています。

従姉から聞いていた話では、おばあちゃんは赤ちゃんの時に養女に入ったという事で トラさんが、育ての親だと話していましたが、そのトラさんことクラさんは、すでに離婚しています。

なのでおばあちゃんの育ての親となる母親が、居ない状況となります。

そして大正7年に曾祖父56歳の時に一度離婚したクラさん51歳と婚姻しています。

どういう事だったんでしょうね?

戸籍には、住所が書かれていてその下に続けて「廃家元戸主 吉田クラ大正7年11月25日(私の曾祖父)と婚姻届出同日入籍」となっています。

「廃家元戸主 吉田クラ」とは、吉田クラの実家が、廃家となったという事なんでしょうかね。

クラさんの実家も吉田なので 母の実家の吉田とは、親戚関係になるのかという事も知りたいところです。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

そこもよくわかっていません。

おばあちゃんが、祖父の吉田光男さんと結婚したのが、おばあちゃんが24歳の時で大正10年です。

この時、私の祖父の吉田光男さんは、28歳でした。

その後、おばあちゃんは、子供を8人産んでいます。

従姉の話では、その頃、吉田家には子守さんが2人居たという事です。

従姉の母も子守さんに遊んでもらった記憶があるそうです。

最初は、母から聞いていた兄妹は6人でしたが、古い戸籍を取ってみると兄妹が8人いた事がわかりました。

そういえば母もそのような事を話していた事を思い出しました。

曾祖父は、クラさんと再婚したことで隠居所(私の母の生まれ育った実家)を建てる事になったのでしょうかね?

その事が、不器男句文集の中に書かれています。

不器男句文集:芝不器男 [著],塩崎月穂 編([寒い話:本P67上段])

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつたが、大方そのためだらう、ミノルカが三羽ばかり飼ってあつた棚は、すでに取りのけられて居た。中の密柑の青黒い葉は、ほこりでよごれて灰色になつてゐる。そして地面も当り前の色ではない。これも寒い。

この日記は、大正12年(1923年12月4日)に書かれたものです。

私の祖父吉田光男さんが、竹葉酒造でお酒を造っていた頃は、吉田酒屋と言っていたのでしょうかね?

私が、収集した吉田家の原戸籍に登場する人物を年代別に整理して家系図を作成してみるとこのようになりました。

吉田家家系図

集めた戸籍からわかる事は、以上の家系図です。

吉田屋

なのでこの家系図からは、吉田屋の「吉田精三」に繋がる人物は、見つける事はできませんでした。

従姉の話では、母の実家の酒蔵には、吉田酒屋と書かれていたモノがあったそうです。

また古文書もあったんだそうです。

従姉の母は、そういものに興味がなかったので燃やしたり業者に引き取ってもらったという話もしていました。

そして私の父が、話していた松丸から見える山は、全部母の里の山だという話をしていましたが、従妹の話では実際に山も持っていたという事です。江川崎の方にも吉田の山があったんだそうです。

こんどは、隠居所(母の実家)は、いつ頃、建てたのか?

そしていつ頃からその土地を所有していたのかも調べてみようと思います。

不器男句文集での日記で「裏の吉田では・・・」と書かれていますので 隠居所を建てる前から その場所は吉田の土地だったという事になります。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その11

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その7

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その6)の続きになります。

【「松野町商工誌」の内容と戸籍から得られた情報の矛盾】

昨日12月4日は、仕事が休みでしたので松野町役場へ 私の祖父(光男)と祖母(私のばおあちゃん)と曾祖父の戸籍を取りに行きました。

そして役所で松丸の明治大正の郷土史に詳しい方を尋ねると教育委員会のKさんを紹介して頂きまして色々とお聞きいたしました。

その話は、また次の機会とし今回は、祖父(光男)と祖母(私のおばあちゃん)と曾祖父の戸籍から分かった事をご紹介します。

今回、戸籍を取ってやっと吉田家と竹葉家の関係が分かりました。

戸籍を見ると私の曾祖父は、「竹葉類蔵の二男入籍す」と書かれており 吉田家に養子として入ったという事です。

竹葉酒造

竹葉類蔵というのは、上記で「松野町商工誌」で説明されてる文章内に出てくる「竹葉類造」となります。ただ「類造」の「造」の字が、戸籍では、この「蔵」となっています。

竹葉類蔵

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。娘は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

この「松野町商工誌」での説明文は、あまりにも簡単過ぎて事実がよくわかりません。

「歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。」と書かれていますが、私の曾祖父は、竹葉類蔵の二男と書かれています。

ただ本で説明されている竹葉家から吉田家に娘が嫁いだという事実は、戸籍には書かれていませんでした。

従妹は、従妹の母親やおばあちゃんから聞いたということで トラさんという人が、おばあちゃんの育ての親だと話ていましたのでてっきり トラさんと曾祖父が、結婚されていたのかと思いましたが、戸籍を調べると曾祖父の妻は、クラと書かれていました。

一番古い戸籍の前戸主は、女性で 亡養母 吉田サヨと書かれていました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

そして吉田サヨの戸籍の上は、抹消されていて取れる戸籍は、ここまでのようです。

曾祖父の妻(クラ)は、吉田喜平と母亡トモ三女と書かれていましたのでこの二人の子供だとわかりました。

ただ亡養母 吉田サヨと吉田喜平は、どういう関係になるのかがよくわかりません。

今までに分かった事を 系図にまとめるとこんな感じになります。

吉田家系図

ちなみに前回の家系図は、こんな感じでした。

吉田家系図

こうなるとおばあちゃんの育ての親というトラさんは、どうなるのか?

トラとクラの従妹の聞き間違いなのか?

まぁ 養女とか養子とか多すぎて肝心の「吉田屋」の吉田精三との関係は、戸籍からは手掛かりが得られませんでした。

松丸明治時代地図

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その8

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

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