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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その10

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その9)の続きになります。

【吉田クラの実家と母の実家とはどういう関係?】

このテーマでブログを書くきっかけとなったのは、私の母が亡くなった事で昔、父から聞いた話を思い出した事でした。

母の実家は、昔は造り酒屋で父の話では、「松丸から見える山々は、すべて母の実家の山だった」とか「広見川が、逆さに流れても吉田は潰れん」と周りからは、言われていたという豪商だったそうです。 しかし人の請け判などをして財産を減らして落ちぶれてしまったという話でした。

従姉から聞いた話では、請け判ではなく株で失敗いしたと話していました。

それでは、今までに分かった事を整理してみます。

私が、集めた原戸籍で一番古い戸籍の戸主こしゅは、女性で 吉田サヨという方でした。

曾祖父の名前で取ったので「前戸主 亡養母 吉田サヨ」と書かれていました。

これより古い戸籍は、廃棄されていてこれより以前の情報はわかりま せん。

なので吉田サヨさんが、何年生まれで夫が誰で何歳で亡くなったのかの情報が一切書かれていません。

この吉田サヨさんの養子に入ったのが、竹葉類蔵(竹葉酒造)の二男の私の曾祖父になります。

それでのちの私の祖父吉田光男が、竹葉酒造でお酒を造る事になるんですね。

曾祖父は、文久2年の生まれになります。

吉田家に養子に入ったのが、明治14年でした。

という事で吉田サヨさんは、曾祖父の養母になります。

養子に入った曾祖父が、吉田家の家督相続を受けたのが、養子に入ったその日となっていました。

なので曾祖父の養母となった吉田サヨさんが、亡くなった日は、曾祖父が養子に入った日ではないかと思われます。

そして曾祖父が、婚姻したのが25歳の時で明治20年にクラさんが入籍しています。

このクラさんが、最初に竹葉家から嫁いだというトラさんと勘違いしていた人になります。

なので「松野町商工誌」に書かれている情報には、誤りがある事がわかりました。「竹葉酒造から吉田に娘が嫁いだ」のではなく「竹葉類蔵の二男が吉田へ養子に入っている」というのが事実です。

そして明治34年に曾祖父は、クラさんと協議離婚をしています。

なぜ離婚したのでしょうか?

クラさんに子供が出来なかったからでしょうか?

その3年後の明治37年に 私のおばあさんが7歳のときに養女として吉田家に入籍しています。

従姉から聞いていた話では、おばあちゃんは赤ちゃんの時に養女に入ったという事で トラさんが、育ての親だと話していましたが、そのトラさんことクラさんは、すでに離婚しています。

なのでおばあちゃんの育ての親となる母親が、居ない状況となります。

そして大正7年に曾祖父56歳の時に一度離婚したクラさん51歳と婚姻しています。

どういう事だったんでしょうね?

戸籍には、住所が書かれていてその下に続けて「廃家元戸主 吉田クラ大正7年11月25日(私の曾祖父)と婚姻届出同日入籍」となっています。

「廃家元戸主 吉田クラ」とは、吉田クラの実家が、廃家となったという事なんでしょうかね。

クラさんの実家も吉田なので 母の実家の吉田とは、親戚関係になるのかという事も知りたいところです。

【▼記事は、下記に続く】

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そこもよくわかっていません。

おばあちゃんが、祖父の吉田光男さんと結婚したのが、おばあちゃんが24歳の時で大正10年です。

この時、私の祖父の吉田光男さんは、28歳でした。

その後、おばあちゃんは、子供を8人産んでいます。

従姉の話では、その頃、吉田家には子守さんが2人居たという事です。

従姉の母も子守さんに遊んでもらった記憶があるそうです。

最初は、母から聞いていた兄妹は6人でしたが、古い戸籍を取ってみると兄妹が8人いた事がわかりました。

そういえば母もそのような事を話していた事を思い出しました。

曾祖父は、クラさんと再婚したことで隠居所(私の母の生まれ育った実家)を建てる事になったのでしょうかね?

その事が、不器男句文集の中に書かれています。

不器男句文集:芝不器男 [著],塩崎月穂 編([寒い話:本P67上段])

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつたが、大方そのためだらう、ミノルカが三羽ばかり飼ってあつた棚は、すでに取りのけられて居た。中の密柑の青黒い葉は、ほこりでよごれて灰色になつてゐる。そして地面も当り前の色ではない。これも寒い。

この日記は、大正12年(1923年12月4日)に書かれたものです。

私の祖父吉田光男さんが、竹葉酒造でお酒を造っていた頃は、吉田酒屋と言っていたのでしょうかね?

私が、収集した吉田家の原戸籍に登場する人物を年代別に整理して家系図を作成してみるとこのようになりました。

吉田家家系図

集めた戸籍からわかる事は、以上の家系図です。

吉田屋

なのでこの家系図からは、吉田屋の「吉田精三」に繋がる人物は、見つける事はできませんでした。

従姉の話では、母の実家の酒蔵には、吉田酒屋と書かれていたモノがあったそうです。

また古文書もあったんだそうです。

従姉の母は、そういものに興味がなかったので燃やしたり業者に引き取ってもらったという話もしていました。

そして私の父が、話していた松丸から見える山は、全部母の里の山だという話をしていましたが、従妹の話では実際に山も持っていたという事です。江川崎の方にも吉田の山があったんだそうです。

こんどは、隠居所(母の実家)は、いつ頃、建てたのか?

そしていつ頃からその土地を所有していたのかも調べてみようと思います。

不器男句文集での日記で「裏の吉田では・・・」と書かれていますので 隠居所を建てる前から その場所は吉田の土地だったという事になります。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その11

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その6

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その5)の続きになります。

【吉田家と竹葉家(分家)は、どういう関係なのか?】

新たに分かった事が有ります。

それは、下記で紹介されていた吉田家に嫁いだ娘の事です。

竹葉酒造

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。娘は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

吉田に嫁いだ娘というのは、「トラ」さんという方だそうです。

これは、従妹から聞いてわかりました。

従妹は、従妹の母やお祖母さんから話を聞いていたという事です。

そしてこのトラさんという人が、私のお祖母さんの 育ての親になるんだそうです。

私のお祖母さんは、まだ乳飲み子の時に吉田家に養女に貰われてきたんだそうです。

そしてその頃は、竹葉類造酒造場・現在の正木正光酒造場 の家で育ったという事です。

という事は、吉田家に嫁いできたトラさんは、私の曾祖父のお嫁さんだという事になりますね。

そして私のお祖父さんの吉田光男は、婿養子という事でしたが、私の曾祖父も婿養子に入ってるという事でした。

そして私の従妹のお父さんも 婿養子で吉田家は、3代続けて婿養子を取ってると従妹が話していました。

昔は、家を守るために婿養子を迎えて家督を維持していたようですね。

【▼記事は、下記に続く】

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そして従妹は、吉田家と竹葉(分家)とは、兄弟関係であるよな話もしていましたが、そこのところは、従妹も詳しくは分からない様です。

とりあえず今までの情報を整理するのに家系図を作ってみました。

吉田家系図

吉田家と竹葉(分家)が、兄弟関係だとしても 曽祖父は、婿養子なので結婚するについては、別に問題はないですね。

そして曾祖父とトラさんの間に 子供が出来ないという事でおばあちゃんを 養女に貰ったという事になるんでしょうね。

そしておばあちゃんが成人して 光男お祖父さんを婿養子にもらったという事ですね。

吉田屋の事よりまずは、吉田家と竹葉家(分家)は、どういう関係だったのかを ハッキリさせたいですね。

私の疑問は、明治の時代は、現在の正木正光酒造場の場所は、竹葉類造酒造場となっています。

しかし従妹の話では、そこが吉田の自宅で私のお祖母ちゃんは、育ったという事です。

江戸時代に吉田家が建てた家なのに なぜ明治時代には、竹葉類造酒造場となっているのか?

色々と謎が多いようです。

 

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その7

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その4

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その3の続きになります。

【「松野町商工誌」の中に描かれていた明治・大正の地図】

松野の歴史

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。嫁は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

ネットで見つけた上記の情報なのですが、「嫁は吉田家に嫁ぎ」という説明の謎が解けました。

やはり「嫁」ではなく「娘」の書き間違いでした。

市立図書館で「松野町商工誌」を確認したところネット情報の文章に間違いがある事がわかりました。

そして「正木正光酒造場」の前の事もわかりました。

法務局で確認するまでもなくこれも「松野商工誌」の明治時代の松丸の明治中期から後期の地図(松丸商店分布概況)やから確認できました。

その図が、これです。

説明書きに▲竹葉類造 酒造場(明治初年)現「正木正光酒造場」と書かれています。

竹葉酒造

 

そして明治時代の地図にも「竹葉類造 酒造場」と記載されていました。

その頃は、まだ鉄道もなく松丸駅もありませんでしたので 駅から「正木正光酒造場」へ突き当たる道もできていませんでした。

まだその頃は、田んぼだったようです。

その明治時代の地図で確認すると 今の「正木正光酒造場」の場所に私の母の実家の吉田の名前の掲載はありませんでしたが、その場所には、竹葉類造(酒造)と掲載されていました。

明治時代の松丸の明治中期から後期の地図(松丸商店分布概況)

大正末期から昭和初期の頃の松丸地図

大正の松丸地図

大正の松丸地図

大正末期には、竹葉酒造は無くなり「正木正光(酒造)」となっています。

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。娘は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

この文章に出てくる私のお祖父さん「吉田光男」が、酒造りを進めていたという竹葉酒造場です。

竹葉が、絶えたあと私のお祖父さん「吉田光男」が、あとを引き継いだ形で酒造りをしていたという事になるのか?そこの事情がよくわかりませんが、あそこの家で「吉田光男」は、酒造りをしていたという事は、間違いないよです。

なので吉田の家だったという事も間違いというわけでもなさそうです。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

詳しい事情を知るには、やはり登記簿を見てみる必要がありそうですね。

「吉田光男」は、竹葉酒造の名前で酒を造っていたのかもしれません。

母から以前聞いていた吉田が、作っていたお酒の銘柄は、「吉の光」と「松の露」だったと聞いています。

竹葉酒造場の名前で酒を造っていた事が分かると以前、税務署の酒類資料館で吉田酒造の事が分からなかった事の説明もつきます。

この調査を始めた時に まず最初に酒の事は、税務署に聞いたら分かるかもと思い税務署に問い合わせをしました。

すると「そうい事でしたら酒類資料館に問い合わせてみて下さい」と連絡先を教えて頂きました。

こちらで明治から大正時代の松丸で 吉田酒造について聞いたところ、吉田酒造では見つかりませんでした。

ということは、「竹葉類造(酒造)」の名前で造っていたという事であれば吉田の名前では、分からなかったという理由も納得します。

そして大正末期の地図を見るとその場所は、「竹葉類造(酒造)」から「正木正光酒造」になっていました。

そして「吉田光男」の名前は、私が知っている母の実家の場所で「吉田光男(酒)」と記載されていました。

ということは、大正末期には、酒造はもうやめて酒の小売りをしていたのか?

そこで宇和島小売酒販組合に問い合わせて調べて頂くと販売業者名簿は、昭和13年のが一番古く この名簿には、私のお祖母さんの名前が販売者という事で登録してあるという事がわかり明治村松丸昭和13年6月23日まで宇和島税務署へ届け出分と載っていました。

ただ販売者の名前しかなくお店の名前は載っていないという事でした。

残念。

でも何故お祖父さんの名前ではなくお祖母さんの名前で登録したのかも謎です。

父や母からは、戦前か戦中に酒造りをやめたという事を聞いていましたのでいつ酒造をやめたのかも知りたいところです。

同級生の高村酒店で聞いてみたら 酒造をしていたら販売もできるので 酒を造りながら販売もしていた可能性もあるという事でした。

という事は、酒造の方の登録は、お祖父さんの名前で 販売の登録は、お祖母さんの名前で登録していたという事なのかなぁ?

あと謎が残るのは、竹葉から吉田家に嫁いだ娘は、誰なのかです。

私のお祖母さん「吉田光男」の妻の旧姓は、戸籍を見ると「竹葉」姓ではありませんでした。

真実を知るには、もっと前の戸籍謄本を取る必要がありそうですね。

 

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その5へ続く

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その3

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その2からの続きになります。

【松野の歴史の中に祖父の名前が!】

その2で紹介しました「松野の歴史」サイトに書かれていました情報ですが、竹葉酒造場(明治初年)という記事を発見しその中に 私のお祖父さんの名前が出てきました。

松野の歴史

松野の歴史

 

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。嫁は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

ここに書かれている事で疑問なのは、「竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。」とあり その次に「嫁は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。」というのは、どういう意味になるのでしょうか?

「竹葉類造は、子供がなくて絶えた。」と受け取れるのですが、その次に書かれてる「嫁は吉田家に嫁ぎ、・・・」とありますが、これは、どういう事になるのでしょね?

娘の間違いなのか?

まさか竹葉類造の嫁が嫁ぐわけも無いだろうし(笑)子供がなく絶えた。というのは、男子が無くという事なのでしょうかね?

それで娘が、吉田に嫁いで竹葉は絶えたという事なのでしょうか?

そうだとしても まだ疑問があります。

例えば竹葉から娘が、嫁いだという事にして吉田家の誰に嫁いだのかです。

【▼記事は、下記に続く】

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あとから説明しますが、吉田家も跡取りがいなかったのですから。

この書き方からだと私のおじいさんの「吉田光男」と結婚したという事になりそうですが、それは、事実と異なる事になります。

私のお祖父さんとお祖母さんは、取嫁取婿で吉田家に入っているんですよね。

戸籍を見るとお祖父さんとお祖母さんは養子、養女となっています。

そして私のお祖母さんの旧姓は戸籍から「竹葉」では無い事が分かります。

なので「松野の歴史」サイトに書かれている事が、あまりにも簡略過ぎて事情がよくわかりません。

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。嫁は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

そして最後に「しばらく吉田光男が酒造をすすめた。」とありますので この書き方だと「竹葉家で酒造をすすめた。」と取れます。

竹葉家の娘を嫁に貰ったとすれば 妻の里の酒造りを手伝う事も考えられますが、そうでないとすれば 竹葉家と吉田光男は、どういう関係であったのかです?

と 色々と疑問がでてきます。

まさかここに書かれてる「吉田光男」は、同姓同名で 私のお祖父さんでは無いとか!

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その4へ続く

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

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