「吉田屋」タグアーカイブ

GPTにある事を聞いたら!

【スポンサーリンク】

LINEで送る
Pocket

前日チャットGPTを利用してブログを書いてみたので その延長でチャットGPTにある事を聞いてみたら驚きの回答が返ってきました。

何を聞いたかというと

「松丸随一の豪商だった吉田屋について教えて下さい。」

とGPTに聞いてみたら私のブログに書いてある事が、回答として返ってきました。

そこでもう一度聞いてみましたら次は、このような内容になっていました。

吉田屋は、江戸時代から明治時代にかけて、愛媛県の松野町にあった商家です。吉田屋は紙や蝋を大阪と直接取引し、巨万の富を築きました。吉田屋の当主は吉田精三という人物で、明治時代には松野町の名誉町長や愛媛県会議員を務めました12。吉田屋は松野町の中でも特に豪商として知られており、松丸随一と呼ばれました34。吉田屋の家系は、吉田本家と吉田分家に分かれており、吉田本家の三女が吉田分家の養子に嫁いだことや、吉田本家の長女が竹葉分家に嫁いだことなどが、原戸籍から確認できます。吉田屋の歴史や家系については、松野町商工誌や理容室/Family Salon セイコウのブログなどで詳しく紹介されています1234 。吉田屋は、松野町の歴史や文化に大きな影響を与えた商家であったと言えるでしょう。

【▼記事は、下記に続く】

スポンサーリンク


【▲上記の記事からの続き▼】

1回目よりは、内容は増えていますが吉田屋当主と竹葉類蔵(竹葉酒造)が、ごっちゃになって間違った回答が返ってきています。

私のブログ記事が、書き出され最後に 吉田屋の歴史や家系については、松野町商工誌や理容室/Family Salon セイコウのオーナーがブログで詳しく紹介しています。と締めくくられていました(^^;)

1回目は、「松野町商工誌」は、入っていませんでしたので回数聞くとGPTは学習しているようですね!

GPT

LINEで送る
Pocket

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ にほんブログ村 美容ブログ 理容室・床屋へ

スポンサーリンク
スポンサーリンク

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その22

【スポンサーリンク】

LINEで送る
Pocket

前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その21)の続きになります。

【原戸籍を元に吉田本家・分家・竹葉分家の関係図を作ってみた!】

今回は、原戸籍の情報を元に吉田本家(吉田屋)、吉田分家(母の実家)、竹葉分家(曾祖父の実家)の それぜれの家系図を作りそれらの家の関係性が分かる関係図を作ってみました。

【図1-1】の右に【図1-2】が繋がります。

そして【図1-1】と【図1-2】を拡大した図が、【図1】から【図4】となります

今まで私のおばあさんの名前は、伏せていましたが「花子」で曾祖父が、「治三郎」です。

そして吉田本家の二男「吉田Rさん」としていた方が、「林三郎」になります。

【図2】の吉田家(分家)の四女が、私の母になります。

【図1-1】

吉田本家分家竹葉分家関係図1

【図1-2】吉田本家分家竹葉分家関係図2

吉田本家と吉田分家としていますが、従姉が、吉田屋が本家になるという事を言っていましたので本家としていますが、原戸籍からは、それが分かるモノは見つかりませんでしたが、吉田本家の三女のクラさんが、吉田分家の私の曾祖父の「治三郎」と結婚していることが分かります。

そして吉田本家の長女のキクさんが、【図3】竹葉分家の長男に嫁いでいます。

吉田本家長男が、吉田屋の当主の「精三」になります。

そして吉田本家家系図のトップの夫は、「喜平」という名前ですが、「芝家文書」に登場する「吉田喜兵衛」ではないかと思います。

【図1】

吉田家本家

吉田分家のトップの「サヨ」の夫は、原戸籍からはわかりませんでしたが、「杉本家文書」に登場する「吉田竹兵衛」が、「サヨ」の夫になるのではと思っています。

「サヨ」には、子供がいない事から【図3】竹葉分家の類蔵の二男「治三郎」を養子に取っています。

そして明治14年12月30日に養子の治三郎に吉田分家の家督が相続されていますので この日にサヨさんは、亡くなられたのではないかと推測します。

その後、明治20年4月26日に吉田本家三女クラさんと治三郎は、結婚しています。

しかし明治34年9月10日に治三郎とクラんは協議離婚しています。

【図2】

吉田家分家

治三郎とクラさんの間には、子供がなかったので私のおばあさん「花子」を【図4】山口家から養女に貰う事になったようで明治37年3月29日に吉田分家に入籍をしています。

このとき花子おばあちゃんは7歳でした。

この時に7歳だったという事は、現在の正木正光酒造場で育ったという話が成立しなくなります。

閉鎖登記簿を調べたときに旧土地台帳には、明治32から33年には、人手に渡っていることになっていますので明治37年3月29日吉田分家に入籍したという事であれば現在の正木正光酒造場で暮らしていたという計算が合いません。

【図3】

竹葉家分家

【▼記事は、下記に続く】

スポンサーリンク


【▲上記の記事からの続き▼】

「花子」の実の父「要逸」は、【図3】竹葉分家の類蔵の三男になります。

なので私の曾祖父の「治三郎」と「要逸」は、兄弟になるので「花子」おばあさんと「治三郎」とは、伯父と姪の関係になります。

【図4】

山口家

 

 

 

 

 

という事は、正木正光酒造場の前は、竹葉分家の酒造場でしたし花子おばあさんの父は、竹葉分家の三男ですので 何かの事情で花子おばあさんが、父の実家の竹葉酒造場で暮らしていた可能性はありえるかもしれません。

従姉から聞いた話では、花子おばあさんは、赤ちゃんのときに養女になったという話を聞いているようなので 7歳になってから入籍したという事もあるのかもしれません。

そして大正7年11月25日に治三郎とクラさんは、また再婚をしています。

そして大正9年2月15日にクラさんは、亡くなられています。

大正12年12月4日の芝不器男の日記に「町の吉田酒屋の老夫婦が隠居所を建てる」という噂のことが書かれてありますが、これも矛盾があります。

不器男句文集 芝不器男 [著],塩崎月穂 編
不器男句文集 芝不器男 [著],塩崎月穂 編

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつたが、大方そのためだらう、ミノルカが三羽ばかり飼ってあつた棚は、すでに取りのけられて居た。中の密柑の青黒い葉は、ほこりでよごれて灰色になつてゐる。そして地面も当り前の色ではない。これも寒い。

実際に隠居所(母の実家)を建てているのですが、大正9年にクラさんは、亡くなられているので 曽祖父の「治三郎」は独り身なので 老夫婦という表現にはあたりません。

なぜ大正12年に「老夫婦」がという噂がたったのかが謎です。

クラさんが、亡くなった事を知らずに生きてるモノと思っていたのでしょうかね?

 

あと原戸籍の情報をもとに吉田本家(吉田屋)、吉田分家(母の実家)、竹葉分家(曾祖父の実家)の それぜれの家系図を作りそれらの家の関係性が分かる関係図を作ってみたところ「松野町商工誌」に紹介されていた説明に誤りがある事もわかりました。

竹葉酒造

竹葉類蔵

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。娘は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

娘は吉田家に嫁ぎとなっている箇所が違います。

これを言うなら吉田本家から吉田分家に 吉田本家喜平の三女(クラ)が嫁ぎとならなくてはなりません。

「しばらく吉田光男が酒造をすすめた。」と紹介されてる光男は、【図2】でもわかるように 花子おばあさんの夫であり私の祖父になります。

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その23

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

LINEで送る
Pocket

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ にほんブログ村 美容ブログ 理容室・床屋へ

スポンサーリンク
スポンサーリンク

私の母の実家は松丸随一の豪商?!その17

【スポンサーリンク】

LINEで送る
Pocket

前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その16)の続きになります。

【裏の吉田では隠居所を建てると云ふ話】

とりあえず今までの調査で分かった事は、「私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その15」で 明らかになりましたように 私の母の実家は分家で 本家が松丸随一の豪商「吉田屋」をやっていた事が判明しました。

ということで私の曾祖父と結婚したクラさんの実家が本家になる事が、原戸籍によってわかりました。

その根拠としては、松野町商工誌で紹介されていました吉田屋の当主である「吉田精三」の名前が、クラさんの父親の原戸籍に記載されていましたことからから判明しました。

【松野町商工誌より】

この中でも特に豪商として知られていたのは、吉田屋・岡田本家(松太郎)・岡田分家(忠一郎)・竹葉屋(市次郎)・正木などであった。 このなかでも松丸随一の豪商として知られていたのは吉田屋であった。吉田屋は紙や蝋を大阪と直接取引し、巨万の富を築いた。
明治初年における松丸の商工業者は、吉田屋(吉田精三)・岡田屋(岡田松次郎)・岡田屋(岡田忠一郎)・正木酒造本店(正木吉太郎)・豊岡屋(山口武七)等である。

以前、従妹からもうち等は、「分家」で「吉田屋」が、吉田の本家になるという事を聞いていました。

という事で 私の父や従姉が、言っていた「広見川が、逆さに流れても吉田は潰れん」と言われていたのは、母の実家の事ではなく「吉田屋」の事を言っていたんだろうなと思いました。

世間からそのように言われていた吉田屋が、なぜ大正時代になって姿を消してしまったのかの理由が知りたいところですが、その原因についていろいろと資料を調べていますが、今のところ吉田屋が、姿を消した原因について書かれてる史料は見つかっていません。

本家とは別に母の実家でも「請け判をして財産を無くした」とか または、「株で失敗して財産を無くした」という話も伝わっています。

その事と吉田屋が姿を消した事とは、何か関係があるのかも知りたいところです。

もし関係が、あるなら母の実家は、吉田屋の商売にどこまで関わっていたのかですね。

まず吉田屋が、商売をやめたのはいつ頃なのかもわかっていません。

吉田屋の当主の長男「吉田精三」は、明治26年9月に隠居して明治28年3月に47歳の若さで亡くなっています。

そして長男が、隠退した事で吉田本家の家督は、二男の吉田Rさんが、明治26年9月に相続しています。

そのあと二男の吉田Rさんが、吉田屋を引き継いで商売をしていたのかもわかっていません。

現在の正木正光酒造場の場所の閉鎖登記簿から明治32年までは、吉田と竹葉の名義だったようで明治32年には、岡田惣十郎に所有権が移転して最終的に正木になっています。

【▼記事は、下記に続く】

スポンサーリンク


【▲上記の記事からの続き▼】

なので明治32年には、吉田屋の商売も上手くいかなくなっていたのかなと想像します。

一方、芝不器雄の日記に母の実家の吉田酒屋の事が書かれていてそれによると「裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた」という事が書かれていて その隠居所こそ母の実家になります。

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつたが、大方そのためだらう、ミノルカが三羽ばかり飼ってあつた棚は、すでに取りのけられて居た。中の密柑の青黒い葉は、ほこりでよごれて灰色になつてゐる。そして地面も当り前の色ではない。これも寒い。

この日記は、大正12年(1923年12月4日)に書かれたモノのようです。

その母の実家の閉鎖登記簿も取って調べたところ 最初の土地の所有者は、竹葉類蔵でした。

そして明治37年3月にYさん(女性)の名義になり次に同年8月に吉田クラさんの名義になっています。

クラさんの名義になる以前は「畑」であり クラさんの時から「宅地」となっていますので明治37年には、この場所に既に家を建てていたのかもしれません。

そうなると芝不器雄が大正12年に書いていた日記の内容は、どうなるのか?

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた

大正12年だと現在の正木正光酒造場の場所は、既に所有者は吉田や竹葉では無くなっています。

という事で 町の吉田酒屋の老夫婦は、どこに住んでいたのかという事になります。

 

私の母の実家は松丸随一の豪商?!その18

 

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

LINEで送る
Pocket

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ にほんブログ村 美容ブログ 理容室・床屋へ

スポンサーリンク
スポンサーリンク

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その15

【スポンサーリンク】

LINEで送る
Pocket

前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その14)の続きになります。

【松丸随一の豪商だった吉田屋の事がわかった】

愛媛県生涯学習センターに「吉田屋」について このような内容の文章が紹介されていまいました。

愛媛県生涯学習センターサイトより抜粋

この中でも特に豪商として知られていたのは、吉田屋・岡田本家(松太郎)・岡田分家(忠一郎)・竹葉屋(市次郎)・正木などであった。 このなかでも松丸随一の豪商として知られていたのは吉田屋であった。吉田屋は紙や蝋を大阪と直接取引し、巨万の富を築いた。

これを読んだ事により吉田屋についてかなり興味が沸きました。

私の母の松丸の実家の姓も「吉田」で「広見川が、逆さに流れるような事が有っても吉田は潰れん!」という話を父から聞かされていましたので母の実家が「吉田屋」だったのかなと?

しかし私の母の実家は、造り酒屋なのでここに書かれている内容には、あてはまりませんので それなら母の実家と吉田屋は何か関係があったのかを調べる事にしました。

松丸の母の実家は造り酒屋をしていましたのでけっこう裕福だったんだろうなという想像はしていましたが、父からは請け判をして財産を減らしたという話も聞かされていました。

子供の頃、母の里に行くと大きな酒蔵がありましたが、その頃には既に酒蔵も倉庫となっていました。

家の中には、お琴や三味線があり実際に母は、お琴を習っていたそうです。

テレビドラマを見ていても 造り酒屋って裕福に描かれていますしね。

最近のNHKの朝ドラで「らんまん」で「日本の植物分類学の父」牧野富太郎のモデルとなった主人公・槙野万太郎の実家も造り酒屋でかなりのお金持ちでしたよね。

そこで吉田屋についての資料を色々探しているとネットで下記の資料を見つけました。

この資料は、松野町商工誌の15ページに紹介されている図です。

吉田屋

そして図の下には、「この図は、吉田屋の図であるがこの他に数店を所有し、多角的であり大規模な経営を営んでいたことが分かる。文字通りの豪商であった。」と書かれていました。

最初は、この図に書かれている吉田の名前の部分が、何という字なのか分からずいろいろと調べていると「吉田精三」である事もわかりました。

そこで図で紹介されている吉田屋の当主「吉田精三」の名前を原戸籍を頼りに探してみる事にしました。

松野町役場の図書コーナーに置かれている「芝家文書調査報告」の中にも吉田屋の事が、書かれていました。

「芝家文書調査報告」とは、芝家の古文書に書かれていた文章をまとめた本です。

芝文書調査報告

その中にこのような記述が31ページにありました。

「吉田喜兵衛きへいは、近代松丸随一の豪商として知られていた吉田屋の前身と考えられ紙や蝋を大阪と直接取引をしたとある。」

というよな事が、芝家の古文書に書かれていたようです。

「吉田喜兵衛きへい」という名前を見てハッとしました。

家系図2

上記の家系図を見ても分かるように クラさんの父の名前も「吉田喜平きへい」です。

名前の漢字こそ違いますが、何か繋がりが有るのではと思いました。

【▼記事は、下記に続く】

スポンサーリンク


【▲上記の記事からの続き▼】

新しく取った吉田喜平の原戸籍を見ると そこの一番先頭に吉田屋の絵で紹介されてる「吉田精三」の名前が、載っていました。

この時は、やったと思いました!

そしてその隣には、吉田精三の妻と妹の名前が載っていました。

そこで 追加で「吉田精三」の原戸籍も取ってみることにしました。

すると「吉田精三」が、長男で「吉田R」が二男で「竹葉の長男と結婚した長女」と「二女」と「三女のクラさん」の5人兄妹である事も分かりました。

家系図

という事で 従姉が言っていたように 吉田屋が、母の実家の本家になるという事で クラさんの実家が本家になる事が原戸籍からわかりました。

ここからまた色々と疑問がでてきました。

母の実家(分家)は、いつ本家から分かれたかです。

吉田サヨさんより上の戸籍は、もう廃棄されてありませんので吉田サヨさんからは、調べる事ができません。

果たして「サヨさん」のご主人は、誰なのか?

そして吉田本家の「吉田喜兵衛きへい」と「吉田喜平きへい」は、同一人物なのか?

吉田屋は、なぜ大正時代には姿を消したのか?

芝 不器男の日記に書かれていた「町の吉田酒屋」は、竹葉酒造(現在の正木正光酒造場)の場所なのか?

明治時代に竹葉酒造だった場所(現在の正木正光酒造場)となっている場所の閉鎖登記簿を取って所有者欄を確認したときに一番最初に登場した人物は、吉田本家の二男の吉田Rさんの名前だったので あそこの土地は、吉田本家が持っていた可能性が高くなりました。

しかし閉鎖登記簿も明治32年より前の事は、廃棄されていて確かめる事が永遠に出来なくなっていますので確かめようもありません。

芝 不器男の日記で「町の吉田酒屋の老夫婦が隠居所を建てる・・・」と書かれていた母の実家の閉鎖登記簿も取ってみましたが、やはり明治33年からの情報でした。

残念ながら土地しか残ってなく建物も登記簿は、無いという事でした。

その旧土地台帳を見ると 最初に掲載されてる名前は、竹葉類蔵でした。

その隣を見ると明治33年7月10日に家督相続となっていて所有者の名前を見ると竹葉類蔵となっていました。

これを見て 私は、戸惑いました。

家督相続という事は、竹葉類蔵が、亡くなったかまたは、隠居したかのどちらかですが、「竹葉類蔵」が家督相続をするという事はどういう事なんでしょうか?

ミステリーです。

次回は、この謎を解いていきます。

私の母の実家は松丸随一の豪商?!その16

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

LINEで送る
Pocket

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ にほんブログ村 美容ブログ 理容室・床屋へ

スポンサーリンク
スポンサーリンク

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その14

【スポンサーリンク】

LINEで送る
Pocket

前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その13)の続きになります。

【閉鎖登記簿に載っていた吉田名義が判明】

12月18日に松野町役場に原戸籍を取りに行った事で色々とわかってきた事がありました。

この時に取った原戸籍は、私の曾祖父の奥さんの「クラさん」と「その両親」の原戸籍と 曽祖父の父の「竹葉類蔵」の原戸籍を取りました。

その13では、「竹葉類蔵」の原戸籍の情報を紹介しましたので 今回は、「クラさん」と「その両親」の原戸籍からの情報を家系図に加えました。

今回は、その13で言っていたように吉田Rさんについてお話しします。

この吉田Rさんは、明治時代に竹葉酒造だった場所(現在の正木正光酒造場)となっている場所の閉鎖登記簿を取って所有者欄を確認したときに一番最初に登場した人物でした。

苗字が、吉田だったので「お~!」と思いましたが、その人物の名前は、私が今まで集めていた原戸籍にはまったく登場していませんでしたので母の実家の吉田との関わりが、まったくわかりませんでしたが、今回新たに集めた原戸籍の中に この人物「吉田Rさん」のお名前が出てきました事で 母の実家との関わりが判明しました。

この「吉田Rさん」は、私の曾祖父の奥さん「クラさん」の兄であることが分かりました。

【▼記事は、下記に続く】

スポンサーリンク


【▲上記の記事からの続き▼】

そしてクラさんのお姉さんが、なんと竹葉類蔵の長男に嫁いでいる事もわかりました。

このことで家系図が、かなり複雑化されてきました。

家系図2

この家系図を見ていると吉田喜平吉田サヨ竹葉類蔵の家系が、絡み合ってる感じです。

次回は、やっと松丸随一の豪商で知られる吉田屋が判明します。

私の母の実家は松丸随一の豪商?!その15

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

LINEで送る
Pocket

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ にほんブログ村 美容ブログ 理容室・床屋へ

スポンサーリンク
スポンサーリンク