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私の母の実家は松丸随一の豪商?!その17

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その16)の続きになります。

【裏の吉田では隠居所を建てると云ふ話】

とりあえず今までの調査で分かった事は、「私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その15」で 明らかになりましたように 私の母の実家は分家で 本家が松丸随一の豪商「吉田屋」をやっていた事が判明しました。

ということで私の曾祖父と結婚したクラさんの実家が本家になる事が、原戸籍によってわかりました。

その根拠としては、松野町商工誌で紹介されていました吉田屋の当主である「吉田精三」の名前が、クラさんの父親の原戸籍に記載されていましたことからから判明しました。

【松野町商工誌より】

この中でも特に豪商として知られていたのは、吉田屋・岡田本家(松太郎)・岡田分家(忠一郎)・竹葉屋(市次郎)・正木などであった。 このなかでも松丸随一の豪商として知られていたのは吉田屋であった。吉田屋は紙や蝋を大阪と直接取引し、巨万の富を築いた。
明治初年における松丸の商工業者は、吉田屋(吉田精三)・岡田屋(岡田松次郎)・岡田屋(岡田忠一郎)・正木酒造本店(正木吉太郎)・豊岡屋(山口武七)等である。

以前、従妹からもうち等は、「分家」で「吉田屋」が、吉田の本家になるという事を聞いていました。

という事で 私の父や従姉が、言っていた「広見川が、逆さに流れても吉田は潰れん」と言われていたのは、母の実家の事ではなく「吉田屋」の事を言っていたんだろうなと思いました。

世間からそのように言われていた吉田屋が、なぜ大正時代になって姿を消してしまったのかの理由が知りたいところですが、その原因についていろいろと資料を調べていますが、今のところ吉田屋が、姿を消した原因について書かれてる史料は見つかっていません。

本家とは別に母の実家でも「請け判をして財産を無くした」とか または、「株で失敗して財産を無くした」という話も伝わっています。

その事と吉田屋が姿を消した事とは、何か関係があるのかも知りたいところです。

もし関係が、あるなら母の実家は、吉田屋の商売にどこまで関わっていたのかですね。

まず吉田屋が、商売をやめたのはいつ頃なのかもわかっていません。

吉田屋の当主の長男「吉田精三」は、明治26年9月に隠居して明治28年3月に47歳の若さで亡くなっています。

そして長男が、隠退した事で吉田本家の家督は、二男の吉田Rさんが、明治26年9月に相続しています。

そのあと二男の吉田Rさんが、吉田屋を引き継いで商売をしていたのかもわかっていません。

現在の正木正光酒造場の場所の閉鎖登記簿から明治32年までは、吉田と竹葉の名義だったようで明治32年には、岡田惣十郎に所有権が移転して最終的に正木になっています。

【▼記事は、下記に続く】

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なので明治32年には、吉田屋の商売も上手くいかなくなっていたのかなと想像します。

一方、芝不器雄の日記に母の実家の吉田酒屋の事が書かれていてそれによると「裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた」という事が書かれていて その隠居所こそ母の実家になります。

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつたが、大方そのためだらう、ミノルカが三羽ばかり飼ってあつた棚は、すでに取りのけられて居た。中の密柑の青黒い葉は、ほこりでよごれて灰色になつてゐる。そして地面も当り前の色ではない。これも寒い。

この日記は、大正12年(1923年12月4日)に書かれたモノのようです。

その母の実家の閉鎖登記簿も取って調べたところ 最初の土地の所有者は、竹葉類蔵でした。

そして明治37年3月にYさん(女性)の名義になり次に同年8月に吉田クラさんの名義になっています。

クラさんの名義になる以前は「畑」であり クラさんの時から「宅地」となっていますので明治37年には、この場所に既に家を建てていたのかもしれません。

そうなると芝不器雄が大正12年に書いていた日記の内容は、どうなるのか?

裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた

大正12年だと現在の正木正光酒造場の場所は、既に所有者は吉田や竹葉では無くなっています。

という事で 町の吉田酒屋の老夫婦は、どこに住んでいたのかという事になります。

 

私の母の実家は松丸随一の豪商?!その18

 

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その15

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その14)の続きになります。

【松丸随一の豪商だった吉田屋の事がわかった】

愛媛県生涯学習センターに「吉田屋」について このような内容の文章が紹介されていまいました。

愛媛県生涯学習センターサイトより抜粋

この中でも特に豪商として知られていたのは、吉田屋・岡田本家(松太郎)・岡田分家(忠一郎)・竹葉屋(市次郎)・正木などであった。 このなかでも松丸随一の豪商として知られていたのは吉田屋であった。吉田屋は紙や蝋を大阪と直接取引し、巨万の富を築いた。

これを読んだ事により吉田屋についてかなり興味が沸きました。

私の母の松丸の実家の姓も「吉田」で「広見川が、逆さに流れるような事が有っても吉田は潰れん!」という話を父から聞かされていましたので母の実家が「吉田屋」だったのかなと?

しかし私の母の実家は、造り酒屋なのでここに書かれている内容には、あてはまりませんので それなら母の実家と吉田屋は何か関係があったのかを調べる事にしました。

松丸の母の実家は造り酒屋をしていましたのでけっこう裕福だったんだろうなという想像はしていましたが、父からは請け判をして財産を減らしたという話も聞かされていました。

子供の頃、母の里に行くと大きな酒蔵がありましたが、その頃には既に酒蔵も倉庫となっていました。

家の中には、お琴や三味線があり実際に母は、お琴を習っていたそうです。

テレビドラマを見ていても 造り酒屋って裕福に描かれていますしね。

最近のNHKの朝ドラで「らんまん」で「日本の植物分類学の父」牧野富太郎のモデルとなった主人公・槙野万太郎の実家も造り酒屋でかなりのお金持ちでしたよね。

そこで吉田屋についての資料を色々探しているとネットで下記の資料を見つけました。

この資料は、松野町商工誌の15ページに紹介されている図です。

吉田屋

そして図の下には、「この図は、吉田屋の図であるがこの他に数店を所有し、多角的であり大規模な経営を営んでいたことが分かる。文字通りの豪商であった。」と書かれていました。

最初は、この図に書かれている吉田の名前の部分が、何という字なのか分からずいろいろと調べていると「吉田精三」である事もわかりました。

そこで図で紹介されている吉田屋の当主「吉田精三」の名前を原戸籍を頼りに探してみる事にしました。

松野町役場の図書コーナーに置かれている「芝家文書調査報告」の中にも吉田屋の事が、書かれていました。

「芝家文書調査報告」とは、芝家の古文書に書かれていた文章をまとめた本です。

芝文書調査報告

その中にこのような記述が31ページにありました。

「吉田喜兵衛きへいは、近代松丸随一の豪商として知られていた吉田屋の前身と考えられ紙や蝋を大阪と直接取引をしたとある。」

というよな事が、芝家の古文書に書かれていたようです。

「吉田喜兵衛きへい」という名前を見てハッとしました。

家系図2

上記の家系図を見ても分かるように クラさんの父の名前も「吉田喜平きへい」です。

名前の漢字こそ違いますが、何か繋がりが有るのではと思いました。

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新しく取った吉田喜平の原戸籍を見ると そこの一番先頭に吉田屋の絵で紹介されてる「吉田精三」の名前が、載っていました。

この時は、やったと思いました!

そしてその隣には、吉田精三の妻と妹の名前が載っていました。

そこで 追加で「吉田精三」の原戸籍も取ってみることにしました。

すると「吉田精三」が、長男で「吉田R」が二男で「竹葉の長男と結婚した長女」と「二女」と「三女のクラさん」の5人兄妹である事も分かりました。

家系図

という事で 従姉が言っていたように 吉田屋が、母の実家の本家になるという事で クラさんの実家が本家になる事が原戸籍からわかりました。

ここからまた色々と疑問がでてきました。

母の実家(分家)は、いつ本家から分かれたかです。

吉田サヨさんより上の戸籍は、もう廃棄されてありませんので吉田サヨさんからは、調べる事ができません。

果たして「サヨさん」のご主人は、誰なのか?

そして吉田本家の「吉田喜兵衛きへい」と「吉田喜平きへい」は、同一人物なのか?

吉田屋は、なぜ大正時代には姿を消したのか?

芝 不器男の日記に書かれていた「町の吉田酒屋」は、竹葉酒造(現在の正木正光酒造場)の場所なのか?

明治時代に竹葉酒造だった場所(現在の正木正光酒造場)となっている場所の閉鎖登記簿を取って所有者欄を確認したときに一番最初に登場した人物は、吉田本家の二男の吉田Rさんの名前だったので あそこの土地は、吉田本家が持っていた可能性が高くなりました。

しかし閉鎖登記簿も明治32年より前の事は、廃棄されていて確かめる事が永遠に出来なくなっていますので確かめようもありません。

芝 不器男の日記で「町の吉田酒屋の老夫婦が隠居所を建てる・・・」と書かれていた母の実家の閉鎖登記簿も取ってみましたが、やはり明治33年からの情報でした。

残念ながら土地しか残ってなく建物も登記簿は、無いという事でした。

その旧土地台帳を見ると 最初に掲載されてる名前は、竹葉類蔵でした。

その隣を見ると明治33年7月10日に家督相続となっていて所有者の名前を見ると竹葉類蔵となっていました。

これを見て 私は、戸惑いました。

家督相続という事は、竹葉類蔵が、亡くなったかまたは、隠居したかのどちらかですが、「竹葉類蔵」が家督相続をするという事はどういう事なんでしょうか?

ミステリーです。

次回は、この謎を解いていきます。

私の母の実家は松丸随一の豪商?!その16

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