前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その4)の続きになります。
【母の実家の造り酒屋は吉田酒造ではないのか?】
松丸の明治時代と大正時代の地図を見ていてある事に気が付きました。
その話は、もう少しあとにして これまでの経緯をまとめてみます。
私が、父や母から聞いていた話では、母の実家は昔造り酒屋をしていたという事でしたので 私は、勝手に母の実家は「吉田酒造」という屋号で商売をしていたんだと思い込んでいました。
なので この事を調べるのに最初「吉田酒造」の名前を手掛かりに調べ始めました。
最初に問い合わせたのが、税務署の酒類資料館で「吉田酒造」の名前で調べて頂きましたが、該当がないという事で「えっ!なんで?」と 困惑しました。
父や母が、こんな事で嘘をつくわけもないし 私が知る母の実家にも ちゃんと酒蔵もありました。
私が、子供の頃は、その酒蔵は倉庫となっていて その酒蔵を探検したり基地を作ったりして遊んだりしていました。
そして私の母の実家の事を調べて行くうちに 竹葉酒造で私のお祖父さんが、酒造りをすすめていた事を 「松野町商工誌」を見てそういう記述がある事に気が付きました。
そこで私は、竹葉が絶えたあと竹葉酒造の屋号で お祖父さんは、造り酒屋をしていたのかもという仮説を立てました。
という事で 竹葉が絶えたあと竹葉酒造の当主が、「吉田光男」の名前の載っている公的な名簿でも見つかれば竹葉酒造の名前で酒造りをしていたという事の証明になります。
なのでこれからは、その名簿探しをしてみます。
冒頭に述べた松丸の明治時代と大正時代の地図を見比べていて気が付いた事なんですが、明治時代には、松丸随一の豪商だと言われていた「吉田屋」の店が、松丸に3軒もあったのに大正末期には、それらのお店がすべてが無くなってしまっていました。
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【▲上記の記事からの続き▼】
ここで思い出されるのが、父や母から聞いた話で 母の実家では 請け判などをしてかなりの負債を抱え財産を減らしてしまったという話です。
そのために大正時代末期にはもう「吉田屋」の店をたたんでしまっていて無くなってしまったのかと想像します。
そうであれば大雑把な状況証拠ですが、吉田屋はやはり母の実家と関係があるのかなとそんなことを想像します。
今のところ「吉田屋」についての情報は、何一つ掴めていません。
今まで調べて来た感触では、吉田屋は曽祖父さんの兄弟の誰かがやっていたのではと 想像するようになりました。
まず私が取った戸籍には、「吉田屋」で紹介されている吉田精三という名前は、私の曽祖父さんの名前とは異なります。
なので曽祖父さんに兄弟がいるのであれば曽祖父さん以外の誰かが「吉田屋」の当主で母の実家は分家だったのではないかと考えます。
これを確かめるには、私の曽祖父さんの兄弟がわかる戸籍を調べる必要がありますね。