大宮庫吉ってご存じでしょうか?
私と同年代または、上の方ならご存じだと思いますが、
現在の南予文化会館が、建つ前には宇和島市公会堂がありました。
その左隣に宇和島市役所がありました。

この公会堂は、1957年(昭和32年)に建設されその際に 大宮庫吉が巨額の寄附をされていました。
なので公会堂は、市民からは大宮ホールとも呼ばれていましたが、1985年(昭和60年)に閉館しました。
今回は、この大宮庫吉という人は、どういう人物だったのかをご紹介します。
生まれは、1886年(明治19年)4月1日、宇和島市内竪新町の井上宇兵衛(卯平)の三男として生まれ、市内丸穂の大宮家の養子となります。

明治40(1907)年、地元のサツマイモを原料として酒精(アルコール)を製造する目的で福井春水、長瀧嘉三郎、高辻重太郎などの有力者によって北宇和郡八幡村(現・宇和島市)に「日本酒精」が設立されました。
その「日本酒精」の後身会社「日本酒類醸造」は、明治43(1910)年、無臭焼酎(甲類焼酎)に在来の焼酎「粕取焼酎」を混和してわが国初の新式(甲類)焼酎「日の本焼酎」を売り出し、爆発的な売れ行きを記録しました。
そして同時に社名を「日の本焼酎」に改称しました。
この新式焼酎「日の本焼酎」を開発したのが、天才技師・大宮庫吉でした。
大宮庫吉の開発した「日の本焼酎」は、味と香りで一世を風靡し、品質・価格とも他社の粕取焼酎を凌駕して圧倒的な評判を得ました。
その後、社名を「日本酒類醸造」に再度改称します。
しかし、その後の焼酎業界の乱立により経営不振に陥った「日本酒類醸造」は、地元宇和島出身の山下亀三郎に救いを求め、山下の仲介により鈴木商店に買収を持ち込みます。
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【▲上記の記事からの続き▼】
大正3(1914)年、九州大里(門司)に「大里酒精製造所」を設立して焼酎事業に進出した鈴木商店としても、「日の本焼酎」の品質を熟知しており工場長・大宮庫吉と共に「日本酒類醸造」を引き受けることになります。
鈴木商店の買収の狙いは、新式焼酎と大宮庫吉本人であったと言われているようです。
「日本酒類醸造」を吸収した「大里酒精製造所」は、敢えて社名を 「日本酒類醸造」とし、大正6年(1917)本社を鈴木商店下関支店内に置きます。
鈴木商店による買収を快しとしない大宮庫吉は、部下17名と共に日本酒類醸造を離れ、1916年(大正5年)、京都伏見の四方合名会社(後の宝酒造)に招かれて入社します。
1925年(大正14年)、四方合名は株式会社に改組、社名は商標を冠し、寳酒造株式会社となります。
1945年(昭和20年)、大宮庫吉は、社長に就任します。
そして1951年(昭和26年)には、会長に就任し1969年(昭和44年)、宇和島市名誉市民称号を受章します。
1953年(昭和28年)、愛媛県青果連からの要請で「タカラポンジュース」を発売、これが宝酒造が手がけた最初の飲料でありました。
1972年(昭和47年)1月19日、京都の自宅にて逝去しました。
享年86歳でした。
宇和島市内の和霊公園には大宮庫吉の銅像が立てられています。
昭和36年11月には和霊神社境内に寿像が建立され、池田勇人が揮ごうしています。
大宮庫吉は、一流の政治家事業家との交際が多く、三笠宮御夫妻が彼の私邸に来ておられ「大宮浩堂翁を偲ぶ」の追悼録には愛知揆一・大平正芳・塩見俊二・塩崎潤・福田赳夫・星野直樹・前尾繁三郎・山際正道その他の名士が執筆しているという事です。