なぜ日本は、アメリカとの国力差や長期戦の危険を認識しながら太平洋戦争へ進んだのか。陸軍と海軍の対立、参謀本部と軍令部の二元構造、大本営、昭和天皇の認識などから、日本の戦争指導が抱えていた問題を考えます。

なぜ日本は陸軍と海軍を一つにできなかったのか――「負けると分かっていた戦争」を止められなかった構造
日本はなぜ、太平洋戦争に負けたのでしょうか。
もちろん、その答えは一つではありません。
アメリカとの圧倒的な国力差、石油などの資源不足、長期戦への対応能力、海上輸送の崩壊、航空戦力の消耗、情報戦の敗北……。
しかし、これらとは少し違った角度から日本の敗戦を考えると、非常に気になる問題があります。
それが、
「陸軍と海軍が、最後まで一つの軍隊として戦略を統合できなかった」
という問題です。
よく「陸軍と海軍は仲が悪かった」と言われます。
しかし、問題は単なる仲の悪さではありませんでした。
陸軍と海軍は、それぞれが巨大な組織として独立し、人事、予算、装備、航空機開発、教育、作戦思想などを別々に持っていました。
そして、国家として「では、どちらの方針を採用するのか」「日本全体として何を最優先するのか」を強制的に決める仕組みが弱かった。
ここに、日本の戦争指導の大きな問題がありました。
「陸軍と海軍は別々だった」というだけではない
まず誤解してはいけないのは、当時の日本に大本営が存在しなかったわけではない、ということです。
大本営は、戦時における最高統帥機関でした。
日中戦争から太平洋戦争にかけても大本営は存在し、陸軍と海軍の作戦を扱っていました。
ただし、大本営が現代的な意味での「統合参謀本部」だったわけではありません。
陸軍には参謀本部があり、海軍には軍令部がありました。
両者はそれぞれ天皇に直属する軍令機関でした。
つまり、大雑把に言えば、
陸軍
→ 参謀本部
→ 天皇
海軍
→ 軍令部
→ 天皇
という二つの系統が存在していたのです。
大本営という場で両者が協議することはあっても、陸軍と海軍の上に立って、両軍に対して強制的に一つの戦略を命じる「統合軍司令部」が存在していたわけではありませんでした。
この違いは非常に重要です。
実は、日本にも一時期「陸海軍を統合する仕組み」があった
さらに興味深いのは、
「日本人は最初から陸軍と海軍を別々にしようと考えていた」
わけではないことです。
明治11年、1878年に参謀本部が設置されました。
その後、1886年には参謀本部の下に陸軍部と海軍部を並列させる、陸海統一の軍令機関が作られています。
さらに1888年には、参軍の下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く仕組みになりました。
つまり、明治日本には、
「陸軍と海軍の軍令を上から統合する」
という発想が実際に存在していたのです。
ところが、この制度は長く続きませんでした。
1889年、海軍の軍令部門は「海軍参謀部」と改称され、いったん海軍大臣の管轄下に戻ります。つまりこの時点ではまだ、陸軍から完全に独立した機関になったわけではありませんでした。
その後1893年になって、海軍参謀部は海軍省から分離し、天皇に直属する「海軍軍令部」として独立します。ここでようやく、陸軍の参謀本部と対等な軍令機関としての地位が確立しました。
ここから、陸軍と海軍の軍令機関が二元的に並立する体制が定着していきます。
これは後の日本の戦争指導を考えるうえで、非常に重要な分岐点だったと言えるでしょう。
なぜ陸軍と海軍は別々の航空機を開発したのか
この問題は、航空機を見ると非常に分かりやすくなります。
戦争中、日本では陸軍も海軍も独自に航空戦力を整備しました。
もちろん、陸軍と海軍では必要とする航空機の性能が違います。
海軍なら、空母から発艦でき、長距離を飛び、敵艦隊を攻撃できる航空機が必要です。
陸軍なら、陸上基地から飛び、地上部隊を支援し、敵陣地や輸送路を攻撃する航空機が重要になります。
したがって、すべてを同じ航空機にすることは合理的ではありません。
しかし、問題はそこだけではありませんでした。
エンジン、部品、計器、無線機、工作機械、材料など、共通化できる部分まで陸軍と海軍で別々に扱えば、限られた資源を二重に使うことになります。
これは平時ならまだしも、総力戦になると大きな問題になります。
日本にはアメリカほど大量の鉄鋼もアルミニウムも石油もありません。
航空機を大量生産するための工場や熟練工も限られています。
その限られた国力を、
「陸軍用」
「海軍用」
と分けて競争すれば、当然ながら効率は悪くなります。
では、誰も「これは非効率だ」と指摘しなかったのか?
ここが非常に重要です。
答えは、
「いや、問題は認識されていた」
です。
日本では戦前から、将来の戦争が単純な軍隊同士の戦いではなく、国家全体の工業力・資源・輸送力を動員する「総力戦」になることが認識されていました。
石油が必要になる。
鉄鋼が必要になる。
航空機を大量に作らなければならない。
工作機械が必要になる。
熟練工が必要になる。
そして、それらを海外から運ぶための船舶が必要になる。
こうした問題は軍内部でも研究されていました。
つまり、
「日本はアメリカと長期戦をやれば苦しくなる」
ということ自体は、まったく知られていなかったわけではありません。
むしろ、軍事や経済を専門的に研究していた人々ほど、日本の弱点を理解していました。
日本は「長期戦では不利」だと知っていた
ここから、日本の戦争指導には一つの大きな矛盾が生まれます。
日本側には、
「アメリカとの長期戦は危険だ」
という認識がありました。
では、どうするのか。
そこで出てきたのが、
短期決戦
という発想です。
初戦で大きな打撃を与える。
南方の資源地帯を占領する。
防衛線を構築する。
そのうえでアメリカに日本との講和を考えさせる。
大まかに言えば、そういう構想です。
しかし、ここには大きな賭けがありました。
それは、
「アメリカが、日本に大きな打撃を受けた後に戦争をやめる」
という前提です。
ところが、実際にはそうなりませんでした。
真珠湾攻撃を受けたアメリカは、むしろ巨大な工業力を総動員して戦争を続けました。
日本が最も避けたかった「長期戦」が始まってしまったのです。
「戦争を始める前に分からなかったのか?」という疑問
ここで、さらに大きな疑問が生まれます。
日本は、
「アメリカの国力は巨大だ」
「石油が不足している」
「長期戦は危険だ」
「航空機を大量生産する能力でも不利だ」
といった問題を、ある程度理解していました。
それなのに、なぜ戦争を始めたのでしょうか。
ここで重要なのは、
「弱点を知らなかった」のではなく、「弱点を知ったうえで、それを克服できる国家戦略を作れなかった」
ということです。
これはかなり違います。
陸軍と海軍では「日本の戦争」が違っていた
陸軍にとって重要だったのは、まず大陸でした。
中国との戦争が続いていました。
一方、海軍にとって最大の仮想敵はアメリカ海軍でした。
つまり、
陸軍から見た日本の安全保障と、
海軍から見た日本の安全保障は、
必ずしも同じではありませんでした。
陸軍は大陸での戦争を考える。
海軍は太平洋での戦争を考える。
そして両者が、それぞれに予算と資源を必要とする。
ここで、
「日本という国家として、最も重要な戦争目的は何なのか」
を決めなければなりません。
ところが、陸軍と海軍の強力な権限を上から統合する仕組みが弱かった。
そのため、国家全体としての戦略よりも、
「陸軍として何が必要か」
「海軍として何が必要か」
という発想が強くなっていきました。
昭和天皇は、この問題をどう見ていたのか
ここは非常に興味深いところです。
昭和天皇は、陸軍と海軍が一枚岩ではないことを知っていました。
戦争中の戦況について陸海軍双方から報告を受ける立場だったからです。
そして戦争が進むにつれて、
スポンサーリンク
【▲上記の記事からの続き▼】
「陸軍と海軍で意見が違う」
というだけではなく、
作戦について軍内部で意見が一致していない
という問題にも直面することになります。
『昭和天皇独白録』の中には、レイテ決戦について、陸軍と海軍、さらに陸軍内部でも意見が一致していなかったことを回想する箇所があります。
これは象徴的です。
日本軍が一つの巨大な組織として、一つの戦略を実行していたわけではない。
陸軍の中でも意見が違う。
海軍とも違う。
現地軍とも違う。
その状況を最終的に天皇が知ることになる。
これは、国家としてかなり危険な状態です。
では、昭和天皇は「陸海軍を統合しよう」と考えなかったのか?
ここは慎重に考える必要があります。
昭和天皇は、陸海軍の対立や戦争指導上の問題を認識していたと考えられます。
しかし、
「陸軍参謀本部と海軍軍令部を廃止して、一つの統合参謀本部にする」
という抜本的な制度変更を実現したわけではありません。
そもそも明治憲法下では、軍令は天皇の統帥権に属するものとされていました。
陸軍参謀本部も海軍軍令部も天皇に直属しています。
つまり、両者を統合するとなると、
「天皇の軍令を誰が補佐するのか」
という制度そのものの問題に踏み込むことになります。
単純に、
「陸軍と海軍が仲良くすればいい」
という話ではありません。
日本の国家統治の仕組みそのものに関係する問題だったのです。
実は、戦争末期になってから統合の必要性は強く意識された
日本も、最後まで何も対策をしなかったわけではありません。
1944年8月には、最高戦争指導会議が設置されました。
目的は、戦争指導の根本方針を策定し、政略と戦略を調整することでした。
参加したのは、
- 内閣総理大臣
- 外務大臣
- 陸軍大臣
- 海軍大臣
- 参謀総長
- 軍令部総長
です。
つまり、
「政治」と「軍事」を一緒に考えなければならない
という問題意識が、ようやく制度として明確になったわけです。
しかし、1944年です。
日本が太平洋戦争を始めてから、すでに約3年が経過していました。
しかも、この最高戦争指導会議も、実際には従来の大本営政府連絡会議から大きく性格が変わったわけではなく、十分な統合機能を発揮したとは言い難いものでした。
問題は「無能な軍人」ではなく、「仕組み」だった
ここまで見てくると、日本の敗戦を、
「当時の軍人は馬鹿だった」
「陸軍と海軍が仲が悪かった」
だけで説明するのは、少し違うのではないかと思えてきます。
当時の軍人の中にも、アメリカとの国力差を理解していた人はいました。
長期戦の危険性を知っていた人もいました。
資源不足を知っていた人もいました。
陸海軍の非効率を問題視する人もいました。
そして昭和天皇も、陸海軍の意見が一致しないことを認識していました。
それでも、
「分かっていること」と「国家として実際に政策を変えること」の間に大きな壁があった。
ここが、日本の戦争指導を考えるうえで非常に重要だと思います。
アメリカやイギリスも、最初から完璧だったわけではない
もちろん、
「日本だけが陸海軍対立を抱えていた」
と考えるのも正確ではありません。
アメリカでも陸軍と海軍の対立はありました。
イギリスでも陸軍・海軍・空軍の利害対立はありました。
ドイツでも陸軍・海軍・空軍の対立がありました。
違いは、
対立があっても、それを国家全体の戦略にまとめる仕組みをどれだけ作れたか
という点です。
特に第二次世界大戦中のアメリカやイギリスでは、軍種をまたいだ戦略調整の仕組みが強化されていきました。
つまり、
「陸軍と海軍が仲良しだったから勝った」
のではありません。
仲が悪くても、最後に国家として一つの戦略にまとめる仕組みがあった。
この違いは大きいと思います。
日本の問題は「認識」ではなく「統合」だった
結局、ここまでの話を一本につなげると、次のようになります。
日本はアメリカとの国力差をある程度知っていた。
↓
長期戦になれば不利になることも知っていた。
↓
資源や航空機生産能力の不足も知っていた。
↓
陸軍と海軍が別々に動くことの非効率も存在した。
↓
それでも陸軍と海軍を国家戦略の下に完全に統合することができなかった。
↓
そこで「短期決戦」という戦略に賭けた。
↓
しかしアメリカは戦争を継続した。
↓
日本は最も苦手だった長期総力戦に引きずり込まれた。
↓
資源・生産力・輸送力・人材の差が時間とともに拡大した。
↓
最終的に敗戦した。
こう考えると、日本の敗戦は単純に、
「アメリカが強かったから」
だけでは説明できません。
もちろん、アメリカの圧倒的な国力は最大級の要因です。
しかし、それと同時に、
「その国力差を認識していた日本が、なぜ国家として一貫した戦略を作れなかったのか」
という問題があります。
そして、その背景には、
陸軍と海軍の二元的な軍令体制
という、日本の国家統治そのものに関わる問題がありました。
「なぜ負ける戦争を始めたのか」という問いを、もう一度考える
戦後の私たちは、結果を知っています。
日本は負けました。
しかし、当時の人々は未来を知りません。
だから、
「最初から絶対に負けると分かっていたのに戦争を始めた」
と考えるのも正確ではありません。
むしろ実際には、
「長期戦なら勝てない可能性が高い。しかし短期決戦なら、あるいは……」
という賭けだったのでしょう。
問題は、その「あるいは」に国家の命運をかけてしまったことです。
しかも、その賭けをするかどうかを判断する国家の仕組みそのものが、陸軍・海軍・政府に分断されていました。
だからこそ、日本の敗戦を考えるとき、
「軍人は戦争をしたかったから」
「政治家が弱かったから」
「陸軍と海軍が仲が悪かったから」
といった一つの理由だけでは足りません。
もっと深いところに、
「日本という国家が、複数の強力な組織を一つの国家戦略にまとめる能力を十分に持っていなかった」
という問題があったのではないでしょうか。
そしてこれは、単なる昭和史の話ではありません。
組織が大きくなればなるほど、
「自分の組織にとって正しいこと」と
「全体にとって正しいこと」
は一致しなくなることがあります。
陸軍にとって正しいこと。
海軍にとって正しいこと。
政府にとって正しいこと。
そして、日本という国家にとって正しいこと。
これらを最後に一つへまとめる仕組みがなければ、どれほど優秀な人間が集まっていても、組織全体として誤った方向へ進んでしまう。
日本の戦争指導を考えるとき、私はそこに一番大きな教訓があるように思います。