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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その5

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前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その4)の続きになります。

【母の実家の造り酒屋は吉田酒造ではないのか?】

松丸の明治時代と大正時代の地図を見ていてある事に気が付きました。

その話は、もう少しあとにして これまでの経緯をまとめてみます。

私が、父や母から聞いていた話では、母の実家は昔造り酒屋をしていたという事でしたので 私は、勝手に母の実家は「吉田酒造」という屋号で商売をしていたんだと思い込んでいました。

なので この事を調べるのに最初「吉田酒造」の名前を手掛かりに調べ始めました。

最初に問い合わせたのが、税務署の酒類資料館で「吉田酒造」の名前で調べて頂きましたが、該当がないという事で「えっ!なんで?」と 困惑しました。

父や母が、こんな事で嘘をつくわけもないし 私が知る母の実家にも ちゃんと酒蔵もありました。

私が、子供の頃は、その酒蔵は倉庫となっていて その酒蔵を探検したり基地を作ったりして遊んだりしていました。

そして私の母の実家の事を調べて行くうちに 竹葉酒造で私のお祖父さんが、酒造りをすすめていた事を 「松野町商工誌」を見てそういう記述がある事に気が付きました。

そこで私は、竹葉が絶えたあと竹葉酒造の屋号で お祖父さんは、造り酒屋をしていたのかもという仮説を立てました。

という事で 竹葉が絶えたあと竹葉酒造の当主が、「吉田光男」の名前の載っている公的な名簿でも見つかれば竹葉酒造の名前で酒造りをしていたという事の証明になります。

なのでこれからは、その名簿探しをしてみます。

 

冒頭に述べた松丸の明治時代と大正時代の地図を見比べていて気が付いた事なんですが、明治時代には、松丸随一の豪商だと言われていた「吉田屋」の店が、松丸に3軒もあったのに大正末期には、それらのお店がすべてが無くなってしまっていました。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

松丸明治時代地図
松丸明治時代地図松丸大正時代地図松丸大正時代地図松丸大正時代地図
松丸大正時代地図
松丸大正時代地図

ここで思い出されるのが、父や母から聞いた話で 母の実家では 請け判などをしてかなりの負債を抱え財産を減らしてしまったという話です。

そのために大正時代末期にはもう「吉田屋」の店をたたんでしまっていて無くなってしまったのかと想像します。

そうであれば大雑把な状況証拠ですが、吉田屋はやはり母の実家と関係があるのかなとそんなことを想像します。

今のところ「吉田屋」についての情報は、何一つ掴めていません。

今まで調べて来た感触では、吉田屋は曽祖父さんの兄弟の誰かがやっていたのではと 想像するようになりました。

まず私が取った戸籍には、「吉田屋」で紹介されている吉田精三という名前は、私の曽祖父さんの名前とは異なります。

なので曽祖父さんに兄弟がいるのであれば曽祖父さん以外の誰かが「吉田屋」の当主で母の実家は分家だったのではないかと考えます。

これを確かめるには、私の曽祖父さんの兄弟がわかる戸籍を調べる必要がありますね。

 

 

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その6へ続く

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!(バックナンバー)

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その4

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私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その3の続きになります。

【「松野町商工誌」の中に描かれていた明治・大正の地図】

松野の歴史

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。嫁は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

ネットで見つけた上記の情報なのですが、「嫁は吉田家に嫁ぎ」という説明の謎が解けました。

やはり「嫁」ではなく「娘」の書き間違いでした。

市立図書館で「松野町商工誌」を確認したところネット情報の文章に間違いがある事がわかりました。

そして「正木正光酒造場」の前の事もわかりました。

法務局で確認するまでもなくこれも「松野商工誌」の明治時代の松丸の明治中期から後期の地図(松丸商店分布概況)やから確認できました。

その図が、これです。

説明書きに▲竹葉類造 酒造場(明治初年)現「正木正光酒造場」と書かれています。

竹葉酒造

 

そして明治時代の地図にも「竹葉類造 酒造場」と記載されていました。

その頃は、まだ鉄道もなく松丸駅もありませんでしたので 駅から「正木正光酒造場」へ突き当たる道もできていませんでした。

まだその頃は、田んぼだったようです。

その明治時代の地図で確認すると 今の「正木正光酒造場」の場所に私の母の実家の吉田の名前の掲載はありませんでしたが、その場所には、竹葉類造(酒造)と掲載されていました。

明治時代の松丸の明治中期から後期の地図(松丸商店分布概況)

大正末期から昭和初期の頃の松丸地図

大正の松丸地図

大正の松丸地図

大正末期には、竹葉酒造は無くなり「正木正光(酒造)」となっています。

この竹葉は現竹葉伝家の昔の分家であり、竹葉類造は明治26年から27年にかけて明治村長をした。歴史の豪家であったが子供がなくて絶えた。娘は吉田家に嫁ぎ、しばらく吉田光男が酒造をすすめた。

この文章に出てくる私のお祖父さん「吉田光男」が、酒造りを進めていたという竹葉酒造場です。

竹葉が、絶えたあと私のお祖父さん「吉田光男」が、あとを引き継いだ形で酒造りをしていたという事になるのか?そこの事情がよくわかりませんが、あそこの家で「吉田光男」は、酒造りをしていたという事は、間違いないよです。

なので吉田の家だったという事も間違いというわけでもなさそうです。

【▼記事は、下記に続く】

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【▲上記の記事からの続き▼】

詳しい事情を知るには、やはり登記簿を見てみる必要がありそうですね。

「吉田光男」は、竹葉酒造の名前で酒を造っていたのかもしれません。

母から以前聞いていた吉田が、作っていたお酒の銘柄は、「吉の光」と「松の露」だったと聞いています。

竹葉酒造場の名前で酒を造っていた事が分かると以前、税務署の酒類資料館で吉田酒造の事が分からなかった事の説明もつきます。

この調査を始めた時に まず最初に酒の事は、税務署に聞いたら分かるかもと思い税務署に問い合わせをしました。

すると「そうい事でしたら酒類資料館に問い合わせてみて下さい」と連絡先を教えて頂きました。

こちらで明治から大正時代の松丸で 吉田酒造について聞いたところ、吉田酒造では見つかりませんでした。

ということは、「竹葉類造(酒造)」の名前で造っていたという事であれば吉田の名前では、分からなかったという理由も納得します。

そして大正末期の地図を見るとその場所は、「竹葉類造(酒造)」から「正木正光酒造」になっていました。

そして「吉田光男」の名前は、私が知っている母の実家の場所で「吉田光男(酒)」と記載されていました。

ということは、大正末期には、酒造はもうやめて酒の小売りをしていたのか?

そこで宇和島小売酒販組合に問い合わせて調べて頂くと販売業者名簿は、昭和13年のが一番古く この名簿には、私のお祖母さんの名前が販売者という事で登録してあるという事がわかり明治村松丸昭和13年6月23日まで宇和島税務署へ届け出分と載っていました。

ただ販売者の名前しかなくお店の名前は載っていないという事でした。

残念。

でも何故お祖父さんの名前ではなくお祖母さんの名前で登録したのかも謎です。

父や母からは、戦前か戦中に酒造りをやめたという事を聞いていましたのでいつ酒造をやめたのかも知りたいところです。

同級生の高村酒店で聞いてみたら 酒造をしていたら販売もできるので 酒を造りながら販売もしていた可能性もあるという事でした。

という事は、酒造の方の登録は、お祖父さんの名前で 販売の登録は、お祖母さんの名前で登録していたという事なのかなぁ?

あと謎が残るのは、竹葉から吉田家に嫁いだ娘は、誰なのかです。

私のお祖母さん「吉田光男」の妻の旧姓は、戸籍を見ると「竹葉」姓ではありませんでした。

真実を知るには、もっと前の戸籍謄本を取る必要がありそうですね。

 

私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その5へ続く

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