前回のブログ(私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その16)の続きになります。
【裏の吉田では隠居所を建てると云ふ話】
とりあえず今までの調査で分かった事は、「私の母の実家は松丸随一の豪商だった?!その15」で 明らかになりましたように 私の母の実家は分家で 本家が松丸随一の豪商「吉田屋」をやっていた事が判明しました。
ということで私の曾祖父と結婚したクラさんの実家が本家になる事が、原戸籍によってわかりました。
その根拠としては、松野町商工誌で紹介されていました吉田屋の当主である「吉田精三」の名前が、クラさんの父親の原戸籍に記載されていましたことからから判明しました。
【松野町商工誌より】
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以前、従妹からもうち等は、「分家」で「吉田屋」が、吉田の本家になるという事を聞いていました。
という事で 私の父や従姉が、言っていた「広見川が、逆さに流れても吉田は潰れん」と言われていたのは、母の実家の事ではなく「吉田屋」の事を言っていたんだろうなと思いました。
世間からそのように言われていた吉田屋が、なぜ大正時代になって姿を消してしまったのかの理由が知りたいところですが、その原因についていろいろと資料を調べていますが、今のところ吉田屋が、姿を消した原因について書かれてる史料は見つかっていません。
本家とは別に母の実家でも「請け判をして財産を無くした」とか または、「株で失敗して財産を無くした」という話も伝わっています。
その事と吉田屋が姿を消した事とは、何か関係があるのかも知りたいところです。
もし関係が、あるなら母の実家は、吉田屋の商売にどこまで関わっていたのかですね。
まず吉田屋が、商売をやめたのはいつ頃なのかもわかっていません。
吉田屋の当主の長男「吉田精三」は、明治26年9月に隠居して明治28年3月に47歳の若さで亡くなっています。
そして長男が、隠退した事で吉田本家の家督は、二男の吉田Rさんが、明治26年9月に相続しています。
そのあと二男の吉田Rさんが、吉田屋を引き継いで商売をしていたのかもわかっていません。
現在の正木正光酒造場の場所の閉鎖登記簿から明治32年までは、吉田と竹葉の名義だったようで明治32年には、岡田惣十郎に所有権が移転して最終的に正木になっています。
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【▲上記の記事からの続き▼】
なので明治32年には、吉田屋の商売も上手くいかなくなっていたのかなと想像します。
一方、芝不器雄の日記に母の実家の吉田酒屋の事が書かれていてそれによると「裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた」という事が書かれていて その隠居所こそ母の実家になります。
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この日記は、大正12年(1923年12月4日)に書かれたモノのようです。
その母の実家の閉鎖登記簿も取って調べたところ 最初の土地の所有者は、竹葉類蔵でした。
そして明治37年3月にYさん(女性)の名義になり次に同年8月に吉田クラさんの名義になっています。
クラさんの名義になる以前は「畑」であり クラさんの時から「宅地」となっていますので明治37年には、この場所に既に家を建てていたのかもしれません。
そうなると芝不器雄が大正12年に書いていた日記の内容は、どうなるのか?
「裏の吉田では、町の吉田酒屋の老夫妻がそこに 隠居所を建てると云ふ話があつた」
大正12年だと現在の正木正光酒造場の場所は、既に所有者は吉田や竹葉では無くなっています。
という事で 町の吉田酒屋の老夫婦は、どこに住んでいたのかという事になります。