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次のYouTubeにアップする動画「金剛山」の事を調べていたら伊達秀宗の前の城主が、「金剛山」を創建した事がわかりました。
伊達秀宗の前の宇和島藩主いや当時は、宇和島という名称ではなく「板島」と言われていていたので板島藩主の富田信高が、「金剛山」を創建したということです。
ちなみに富田信高のその前の藩主は、築城の名手の一人に挙げられる有名な藤堂高虎でした。
その藤堂高虎が、「板島丸串城」今の宇和島城を約6年かかって築城したという事です。
富田信高は、慶弔13年(1608年)伊予板島(今の宇和島)に封ぜられ入部すると 今の「金剛山大隆寺」を亡父知信の菩提を弔うために建立しました。
建立当時は、金剛山は、「大隆寺」ではなく金剛山正眼院と呼ばれていました。
そして富田信高が、宇和島に入部してから5年後の1613年(慶長18年)に事件が起こります。
津和野藩、今の(島根県津和野町)で富田信高の妻の弟である坂崎直盛が、富田信高の妻の甥、宇喜多左門と刃傷沙汰を起こし、宇喜多左門は富田信高の妻に助けを求めてきました。
富田信高は、妻の願いを聞き入れ宇喜多左門をかくまいますが、坂崎直盛により徳川幕府に訴えられた末、富田信高は、改易にされてしまいます。
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と言う事で富田信高が、藩主であったのは、わずか5年間だけでした。
その後は、幕府の直轄地となり 前藩主だった高虎が、預かり藤堂良勝を城代としています。
その後、慶長19年(1614年)12月に伊達政宗の長子、秀宗が、宇和郡10万石に封ぜられ翌元和元年(1615年)3月に入城後、宇和島城と改めたという事です。
その後は、伊達氏の居城となりました。