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昭和41年11月(1966年)に旧町名が消滅しまいした。
旧町名 | 備考 | 名称碑 | |
1 | 竜華前 | この「龍華前」の呼び名は、龍華山等覚寺の門前にあたることが町名の由来で 旧藩時代には、下士層(御小人組)などが、居住した町であったようです。古くは「龍華前通」ともいわれていました。※今は、以前設置されていた場所から移転して竜華橋のたもとに設置されています。 | ![]() |
2 | 一宮下 | 宇和四群の総鎮守であった宇和津彦神社は、一宮様とも呼ばれその境内の下にあることが 町名の由来。 | ![]() |
3 | 鋸 町 | 当時、下士層(鉄砲組)などが居住し、既に鋸町とよばれていたそうです。以前は、木挽職人が多く彼らが使用する「のこ」大鋸が、由来するとも大鋸屑が、山積みされていたのでこの名前が付いたとも言われているそうです。 | ![]() |
4 | 大工町 | 大工町の由来は、宇和島藩御作事奉行配下の大工職人が、多く居住していたのでこの名前が付いてそうです。 その後職人や雑業者が、居住しさらに商業地となったようです。 |
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5 | 樽屋町 |
元禄頃の記録では木挽町とありますが、後に樽屋が多く居住したので樽屋町と改称されたといわれています。 スポンサーリンク
そして小字の風呂屋横丁は、通称として現在も残っているそうです |
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6 | 大石町 | (おいしのちょう)とも言われ伊達家入部以前、宇和島城下の町造りの際に 地中から大石が多く掘り出された事からこの名が付いたと言われています。 なお 古くは、板島丸串城の外郭でもあったそうです。 | ![]() |
7 | 鎌原通 | 鎌原通は、旧藩時代には、上士層の屋敷町でありました。藩の御物頭鎌原五右衛門の屋敷があったのでこの名前がついたといわれています。 | ![]() |
8 | 中 町 | 中町は、上士層の屋敷で 広小路と鎌原通の間にあることからこの名が付いたと言われています。 明治から昭和にかけて商業学校、紙幣工場、武徳殿や諸官庁がありました。 |
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9 | 大榎通 | (おいのきどおり) この辺りは、板島丸串城の外郭にあたり堀がありそこの土塁に榎が植えられのちに大榎になったことが前の由来。 |
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10 | 追手通 | 追手通は、宇和島城の正門である追手門(御多門)に由来するそうです。旧藩時代には、城堀に沿う片側町で船着き場もあったそうです。明治に到り堀は、埋め立てられその後市街化し賑わっていましたが、戦災で大部分焼失しました。 | ![]() |
11 | 堀端通 | 堀端通は、宇和島城を取り囲む城堀に沿う片側町でありました。明治43年に堀が埋めたてられましたが、町名は残りました。幕末には、神尾・宍戸・桜田・松根などの上士層の屋敷が連なっていたそうです。 | ![]() |
12 | 富澤町 | 富澤町は、旧藩時代、御殿医冨澤氏が居住していたのでこの名がついたと言われてるそうです。 かつてシーボルトの娘イネが、村田蔵六の指導を受けるため居住した町ともいわれているようです。 |
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13 | 本 町 | 本町は、旧藩時代の城下の町屋の中心で 一丁目から五丁目までありました。 「本」とは、根本の意で商業地の中核として発展しました。 |
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14 | 袋 町 | 袋 町は、藩政時代、大手通、竪新町、本町と城堀に囲まれ袋の様に行き止まりになっていた事からこの名がついたそうです。 | ![]() |
15 | 裡 町 | 裡町は、裏町とも書きます。本町に対して裏の町という意味で旧藩時代には、北の番所が置かれていたそうです。一丁目から五丁目まであり小字の六兵衛坂は通称として現在も残っています。 | ![]() |
16 | 北 町 | 北町は、辰野川中流の両岸に位置するこの町は、旧藩時代、吟味役所などがあり北の足軽組が、居住したのでこの名がついたといわれているそうです。 | ![]() |
17 | 龍光院前 | 龍光院前は、宇和島城の鬼門封じの祈願所として建立された臨海山龍光院の前に位置するのでこの名がついたといわれているそうです。旧藩時代には龍光院裏番所もあったそうです。 | ![]() |
18 | 向新町 | 向新町は、旧藩時代、辰野川を隔てて横新町の対岸の埋め立て地に足軽組が居住していたそうです。横新町の川向うに位置していましたのでこの名がついたといわれているそうです。 | ![]() |
19 | 舟大工町 | 船大工町は、旧藩時代、千石浜と呼ばれ後にお船手へ通じる海岸の道沿いに片側町ができ そこに船大工職人が多く居住してのでこの名がついたといわれているそうです。 | ![]() |
20 | 薬研堀 | 薬研堀は、旧藩時代 浜御殿の南に位置するこの地には、堀や馬場があったそうです。その堀や馬場が、薬研に似ていたのでこの名が付いたと言われている様です。 | ![]() |
21 | 竪新町 | 竪新町は、旧藩時代辰野川の河口につくられた新町で 袋町に縦(竪)に繋がって造成された町という意味だそうです。かつては城堀(後の内港)に面していました。 辰野川を文字って「たつしんまち」とも呼んだのでしょうかね? |
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22 | 横新町 | 横新町は、竪新町の北側に隣接する新町であるのでこの名がついたそうです。 かつては、堀末番所や船着場があり幕末には物産役所や融通会所が置かれていたそうです。 |
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※ | 柳 町 | (※柳町は正式な町名では無く通称のようです。) | ※ |
23 | 北新町 | 北新町は、かつては藤江の一部であり宇和島市街の北端に新しく形成された町という意味で名付けられたそうです。昭和7年の須賀川付け替えによって町の一部は川床となったそうです。 | ![]() |
24 | 湊町 | 湊町は、港町とも書くそうです。横新町の西方に接する埋め立て地で 宇和島湾に臨んでいたので大正元年に湊町と名付けられたそうです。 | ![]() |
25 | 栄町 | 栄町は、宇和島市制施行前八幡村の一部だったこの地は、かつて藩の生産場があったそうです。市制施行後の大正11年、将来の発展を願って栄町とされたそうです。 | ![]() |
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旧町名をこうやって石碑にして残しているのは素晴らしい。災害に関連した町名などをむやみに新町名にして被害が大きくなった例が広島や鬼怒川などいくつもあります。
キースさんへ
コメントありがとうございます。
昔の町名って 意味があって付けていましたよね。
その名前を変えてしまうという事は、昔の人のメッセージが、未来へと伝わらなくなるという事もありますね。
せめて碑を建てて伝えていく事は、大切だと思います。