伊達家墓所〜龍華山編5

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今日は、伊達宗贇だて むねよしを紹介します。

伊達宗贇だて むねよしは、寛文かんぶん5年1月15日(1665年3月1日)- 宝永ほうえい8年2月18日(1711年4月5日)は、伊予宇和島藩の第3代藩主です。

寛文かんぶん6年(1666年)に陸奥仙台藩むつせんだいはんの一門衆筆頭・角田石川氏の石川宗弘いしかわ むねひろ養子ようしとなり、延宝えんぽう7年(1679年)に元服げんぷくし(石川氏時代は仙台藩主である父・綱宗つなむね、兄・綱基(綱村つなむら)より偏諱へんきの授与を受けて石川宗昭いしかわ むねあき石川基弘いしかわ もとひろと名乗っていました。)

【35】3代伊達宗贇3代伊達宗贇むねよし

しかし、貞享じょうきょう元年(1684年)3月13日、伊予宇和島2代藩主・宗利むねとしの次女と結婚し、その婿養子むこようしとなり、伊達宗贇だて むねよしに改名します。

元禄げんろく6年(1693年)11月14日、宗利むねとし隠居いんきょしたためその跡を継いでいます。

鎧兜よろいかぶとが残されていますが、それから察すると非常な巨漢きょかんであったようです。

なお、仙台藩主家からの直接の養子ようしでなく陪臣ばいしんの家をているため、仙台藩が宇和島藩を末家ばっけ扱いとする一因となったようです。

ちなみに陪臣ばいしんとは、主人を持つ武士が家臣かしんとして召し抱えた武士を陪臣ばいしんといい末家ばっけとは、本家から血縁の 最も遠い家の事をいうそうです。

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藩政においては元禄げんろく9年(1696年)7月4日、所領が7万石の実収入のところを高直たかなおしで10万石と過大申告しています。これは、初代藩主・秀宗ひでむねが伊予吉田藩に分与した3万石分をおぎない、宇和島藩の10万石としての体面を保つためであったようです。

そのために町人新田開発や藩営の新田開発を奨励しょうれいするなどしましたが、ただでさえ苦しかった藩財政がますます苦しくなり、倹約令や商人からの借金、家臣団かしんだん大減封だいげんぽうを行なう有様であったようです。

【36】3代伊達宗贇むねよし3代伊達宗贇むねよし

第3代藩主伊達宗贇だて むねよしは、宝永ほうえい8年(1711年)2月18日、47歳で死去し、跡を三男・村年むらとしが継いで第4代藩主となりました。

伊達宗贇だて むねよしの法号は大玄院殿天山紹光大居士。

その4年前には、宝永ほうえい大地震があり江戸時代の宝永ほうえい4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 )を震源域として発生した巨大地震で南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされています。

今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜龍華山編5」のお話でした。

愛媛県宇和島市野川甲1157
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