伊達家墓所〜金剛山編3

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【21】秀宗次男 宗時むねとき秀宗次男 宗時 墓地左側から

「伊達家墓所〜金剛山編1」でも紹介しましたが、伊達秀宗だて ひでむねの正室「かめ」の二男・宗時むねとき世子せし)でしたが、父秀宗よりも早く亡くなっています。

秀宗公次男 宗時

【22】秀宗次男 宗時秀宗次男 宗時 墓地右側

宗時むねときは、元和8年(1622年) 同母兄の宗実むねざねとともに将軍徳川秀忠に御目見おめみえしたそうです。

寛永4年(1627年) 宗実が病弱を理由にちゃくを辞したため、宗時むねときは、寛永9年(1632年)に世子せしとなり従五位下左京亮じゅうごいしもさきょうのすけ叙任じょにんされました。

寛永15年(1638年)、祖父政宗が幕府に宇和島藩の改易願いを出すという和霊騒動の衝撃のため中風ちゅうふうになり、病床にすことが多くなっていたそうです。(中風って「ちゅうぶ」の事ね)父・秀宗に代わり宗時むねときは宇和島に入り、実質的な藩主として政務をとったという事です。

このとき秀宗はすでに死んだもの、隠居したものとして扱われており、幕府も家臣も宗時のお国入りを「当主となり帰国」と認識しており、「大武鑑だいぶかん」など一部史料では藩主の列に数えられているという事です。

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寛永20年(1643年)には仙台藩に乞うて家臣を貰い受けるなどしており、実際に当主として活動していたという事です。藩政では家臣の知行ちぎょう蔵米制くらまいせいに移行し、定免法じょうめんほうへの税制改正などを行なっています。

慶安3年(1650年)から宗時は健康を害するようになり、また同年には土佐藩との国境争いも起きていました。

【23】秀宗次男 宗時秀宗次男 宗時 左側

承応2年(1653年)5月29日、宗時は39歳で父に先立ったため、実際の2代当主は異母弟いぼてい宗利むねとし襲封しゅうほうしました。(襲封しゅうほうというのは、領主が領地をうけつぐことです。)

なお、宗時の早世そうせいは和霊騒動による山家公頼やんべ きんよりの祟りと噂されたようです。

今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜金剛山編3」のお話でした。

愛媛県宇和島市金剛山大隆寺
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