こちら西墓所には、宇和島初代藩主秀宗の墓所があります。
ここ龍華山等覚寺は、禅宗の臨済宗で元和4年(1618年)伊達家初代藩主秀宗の母竜泉寺殿を弔うために創建し白雲山竜泉寺といっていましたが秀宗の墓所となってからその法名を取って等覚寺と改めました。西の墓所には、秀宗と4人の殉死者の墓(県指定史跡)があります。
その他4代村年の墓(市指定史跡)そして東の墓所には、8代宗城と夫人の墓(県指定史跡)その他2代宗利、3代宗贇、6代村寿らの墓(市指定史跡)があります。
伊達 村年宝永2年1月16日(1705年2月9日)- 享保20年5月28日(1735年7月18日)は、伊予宇和島藩の第4代藩主です。伊達 村年は、第3代藩主伊達宗贇の3男で母は中里氏(側室で宇和島藩士の娘)です。正室は仙台藩主で従兄弟にあたる伊達 吉村の娘・富子です。
側室に松川氏ほか。子は伊達 村候(長男)、島内徳風(次男)、青木一貫(三男)、娘(柳沢信鴻正室)。官位は従四位下、遠江守。幼名は伊勢松。伊織。初名は宗貞、貞清。のちに義父の伊達吉村より偏諱を賜って村年に改名しました。
兄の宗相が早世したため、宝永7年(1710年)4月2日に世子に指名され、翌年の父の死去により跡を継いでいます。
藩政においては享保13年(1728年)から享保16年(1731年)にかけて風水害、享保17年(1732年)に虫害などが起こって藩内は凶作・大飢饉が続き、藩財政は窮乏化していました。このため、倹約令と有能な人材登用を主とした藩政改革を断行しようとしたが、享保20年(1735年)5月28日、村年は参勤交代で帰国途上の播磨国加古川にて31歳の若さで急死し、成果が挙がらずに終わった様です。
跡を長男・村候が継ぎました。
法号は泰雲院殿宗山紹沢大居士。
今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜龍華山編2」のお話でした。