伊達 村寿は、宝暦13年1月4日(1763年2月16日)? – 天保7年3月10日(1836年4月25日)伊予国宇和島藩の第6代藩主です。
第5代藩主・伊達村候の四男で母は鍋島宗茂の娘・護姫です。
正室は伊達重村(仙台藩主)の娘・順子。
側室に浅見氏、鬼生田氏、田中氏、滝本氏。
子は伊達宗紀(長男)ほか
幼名は兵五郎といいました。
生年には宝暦11年(1761年)説もあり、はっきりしていないようです。
安永6年(1777年)11月15日に元服し、仙台藩主で義父の重村から偏諱を賜って村寿と名乗るようになります。
前にも説明しましたが、偏諱とは、上位者が下位者に名前の一字与える事ですね。
寛政6年(1794年)、父の死去により家督を継ぎますが藩政においては財政再建のために倹約令を出しますが、家老の稲井甚太左衛門と番頭の萩森氏が藩の主導権をめぐって争い、萩森騒動を起こすなど、改革は停滞したようです。
萩森騒動とは、
宇和島藩では藩政初期から財政難が起こっていましたが、江戸時代後期になると洪水や大火、旱魃等の天災が相次いで財政は逼迫し、文化9年(1812年)には遂に藩財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生しました。宇和島藩は当時、藩内に差上銀(献金)を命令し、家臣には5年の半知借上を行ない、藩札の濫発も行なっていました。
このため宇和島藩では両替のために正銀が不足し、藩札騒動も起きるなど武士も領民も困窮していました。
このため11月20日、家臣の借上に関して藩で協議が行なわれ、老中の稲井甚太左衛門が5年の期間をさらに3年延長すると言い出しこれに対し、番頭の萩森宏綱が下級武士から差上米を取ることに反対し、100石以上の上級武士に3年にわたり知行を返上する案を出しました。
無論、萩森自身も480石取りであるため、これに含まれ案を出した萩森は10人扶持が貰えるなら自ら応じると述べた。
稲井は「萩森が医者の息子で萩森家に養子入りしていた」ことから、萩森を衆人環視の前で大いに面罵しました。
稲井は、大勢の前で萩森をバカにしたということですね。
萩森は屈辱を覚えて重役の小梁川主膳と会い、稲井の無能を言い立てたが、主膳は慰めて家に帰したそうです。
翌日夕刻、萩森は小梁川を訪ねると、小梁川は稲井の屋敷に出かけていました。
萩森は小梁川が稲井に前日の件を密告に行ったと思い、手槍を携えて稲井屋敷に討ち入りました。
実は小梁川は密告に行ったわけではなく、稲井屋敷で勉強会があり出かけていただけで、この日は屋敷に多くの藩士が集まって参加していたのだが、手槍を携えて現れた萩森に驚き、井関徳左衛門が手槍を奪おうとして揉み合いになり、萩森は脇差で井関を斬りつけました。
この日の勉強会には文武の達人中川幸八がおり、稲井と小梁川に斬りつけようとしていた萩森を取り押さえました。
文化10年(1813年)2月9日、萩森は「老中(稲井)を侮り、上を軽んじ候致方、其上井関徳左衛門へ手疵を負はせ、重々不届き」として藩命により法円寺で切腹となりました。
小梁川は20石加増、井関は20石加増となりました。
この時の切腹は江戸時代の泰平になってから久しいことで、作法など諸事を調べた上で行なわれ荘厳なものだったそうだ。萩森は「常態の顔色」で従容と切腹し、家は断絶し、家財は没収されたそうです。
ただ、藩もこの騒動により、騒動後の12月2日に3年の倹約令を出しましたが、半知借上から三歩借上に変更され、12月17日には家中に対する借下米、借下銀は全て引き捨てとされるなど、藩は譲歩を余儀なくされました。
萩森の死後、藩は萩森の墓所に参拝することを禁じましたが、家中や町人の多くが忍び参りすることが後を絶たなかったそうです。
これは萩森の下級武士に対する擁護発言、身命を賭しての討ち入り、藩札が正銀と両替できるようになったためとされます。
萩森の霊は「萩森様」として崇められ、萩森神社として祀られ、世直しの流行神として末社は上方にまで及んだそうです。
かつて萩森神社は宇和島市立宇和島病院本館あたりにあったようですが、現在は廃社となり存在しません。なお、藩は萩森人気が高すぎたため、切腹の年に生まれた男子の栄之助(11歳)に家名を継ぐことを許したそうです。
話は、伊達 村寿に戻ります。
文化14年(1817年)から病気を理由にして、長男・宗紀に藩の実権を預けその後の文政7年(1824年)9月12日、家督を譲って隠居し、天保7年(1836年)3月10日に死去した。
今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜龍華山編6」のお話でした。