上り立ち門の前横には、児島惟謙の銅像が建っています。
児島惟謙は、天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下堀端通の宍戸屋敷内の長屋で宇和島藩家老宍戸の臣、金子惟彬の次男として出生しました。今の宇和島税務署の有るところが宍戸邸跡だそうです。
幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送っていたそうです。
慶応元年(1865年)に長崎に赴いて坂本龍馬、五代友厚らと親交を結んで慶応3年(1867年)に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動し戊辰戦争にも参戦したという事です。
1891年に大審院長に就任しまもなく大津事件が発生しました。ロシアの報復を恐れた総理大臣松方正義ら政府首脳が大逆罪の適用を強く主張してきましたが、その圧力を排して津田に通常人に対する謀殺未遂の条文を適用すべきことを強調し司法権の独立を守った護法の神とうたわれました。
上り立ち門ですが、宇和島城の古い地図を見ると南の登山口は、豊後橋を渡り搦手門・上り立ち門・長門丸門・雷門・三ノ門・二ノ門・一ノ門(櫛形門)と天守に至る間には7つの門があったようですが現在残っているものは、上り立ち門唯一であります。この上り立ち門を建築した年代は、寛文年間(1661年〜で)城郭全体の大修築を行った時のものであろうと推定されます。
建築の様式は、薬医門(役居門)形式であります。方形24.3cm×24.3cm本柱二本、と方形24.3cm×24.3cm空柱二本正面の桁は方形裏面の桁は円形簗三本あり束は、中央から正面側三分の一のところにあります。屋根は切妻造本瓦ぶきで丸瓦の先端には、九曜伊達家の紋が付いています。間口は、二間3.636m奥行一間1.818mという小さい門の規模でありますが天守閣以外城郭建築の遺構の現存しない宇和島城としては大切な文化財であります。
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める
「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるように
していたもといわれています
今日の「宇和島の散歩道」は、「宇和島城・上り立ち門」のお話でした。
[宇和島城地図 Simple Map]