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今日からは、宇和島市の今では消滅してしまった旧町名を紹介していきます。
私は、小学5年生までは愛宕町3丁目に住んでいました。
昭和41年の町名変更前までは、私が住んでいた愛宕町3丁目辺りは「大榎通」という町名だったようです。
なので私が生まれた時はまだ大榎通でした。
これは、当時の母子手帳ですが、まだ大榎通となっています。
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この町名の由来は、伊達家入部以前は、板島丸串城の外郭にあたり堀があったようです。その土塁に榎が植えられのちに大榎になったということで この名前が付いたそうです。
そして 上士層の屋敷町だったということです。
宇和島御城下絵図(元禄16(1703)年)と現況平面図の比較検証図より(のうみんさん提供)
今日の「宇和島の散歩道」は、「宇和島旧町名 大榎通」のお話でした。
[宇和島市「大榎通」名称碑設置場所地図 Simple Map]
愛媛県宇和島市洗心寮
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おはようございます。私は鋸町でした、ポンプ場にまだ名前が残っています、昔は道をはさんで向かい同士が仲間でしたが、途中から背中合わせが仲間になりました。私の家は愛宕町、向かいの家は宇和津町になりました。家に明治生まれの祖父が居たので旧町名をよく使ってました。
高橋真慈さんへ
「鋸町(おがまち)ポンプ場」まだあったんですね。
昨日行ったのに全然気が付きませんでした(^^;)a
子供の頃に 大榎通とか鋸町の名前は、聞いてましたがそれがどこの事なのかという事までは把握してませんでした(^^;)a
セイコウさん、質問します。野川はなぜ1区は無いのかなあ?普通は手前から1区2区ですが野川はなぜ奥から1区なのかなあ?
高橋真慈さんへ
言われてみれば一区が無いですね。
一宮様に遠慮したのでしょうか(^^;)
昨日取材中のセイコウさんを通り過ぎた後に気付きましたが、打合せの時間に間に合いかねだった為声も掛けずに行ってしまいました。 その節は失礼しました・・・。
ほォ~ 早速記事になっていますねェ
小さい頃住んでいた 山際は汐田町に変わり、しばらくして又山際に戻りました。
いったい何があったのでしょうか・・・?
山際が復活したときに丁目が変わったはず、その時に中沢町と夏目町が出来たはずです。
高橋真慈さんへ
昔は、中沢も寄松だったんですね。
のうみんさんへ
そうだったんですか!
気が付きませんでした(^^;)a
どの辺ですれちがったのでしょうか?
昭和46年の地図を見ると国道56号に近いとこが、山際でその奥が、汐田町になっていますね。
でもかえたモノを何故もとに戻したんでしょうね?住民運動が有ったんでしょうか?
山際は戻った時に丁目が変更になったはずです。間違えてました、野川は手前から1区、2区、3区、4区でした、普通は奥からなのに、私が宇和津小学校の一年生の時はまだ、野川1区おたまえさまの辺りだったような、記憶があります
高橋真慈さんへ
野川の一区探しましたが一区は有りませんでした。
昭和46年発行に地図には、野川だけで 何区という区切りはありませんでした。
おたまえさまのところは、宇和津町になっていて その山側の方が、野川四区でおたまえさまの前の方が、野川二区が迫ってきている感じで野川に挟まれている感じになっています。
元、野川1区に同級生はいませんか?
高橋真慈さんへ
野川にも友達いますが、野川一区ってどこになるんですか?
小学校時代、おたまえさまの前あたりの子が分団リレーで赤ハチマキの野川から白ハチマキの宇和津町になっていた記憶があります、家は変わってないのに、おたまえさまから野川の谷脇商店、高辻商店があった場所に行く小さな橋までの一宮様側かも
高橋真慈さんへ
野川の谷脇商店は、私の父と同級生でした。
そして高辻商店の娘さんは、私の同級生になります。
今なぜ野川一区は、無いのでしょうかね?
野川3区出身なので、初めてコメントします。
野川1区は、現在の宇和津町1丁目になります。そうなった経緯は分かりませんが、昭和41年頃の町名変更の際に変わりました。
それ以来、野川に1区が無い状況が続いています。1区出身の同級生も何人かあり、彼らは今でも”野川”と言い、”宇和津町”とは言いません。
谷脇商店・高辻商店とも野川3区にあった店でよく利用しました。
(4月の話題にコメントが遅くなりました)
うーさん さんへ
やっぱり野川1区ってあったんですね。
宇和津町1丁目というと金剛山のあたりですね。
情報ありがとうございました(^^)
松田アパートがなくなったのが残念