天赦園グラウンドの横の道路の中央に「冠の柳」が植えられていましたが昭和46年頃には、既に枯れ損じその子を育成していた様です。
文久2年11月10日(1862年)江戸から帰宇途中の九代藩主宗徳が、京都より発した大早飛脚便が宇和島にいる宗城のもとに届きました。
それは、京都朝廷から宗城の上京を促した沙汰書の写しでありました。
「先年来忠誠の趣は、叡聞に達している。上京して正論を聞かせてもらいたし」と記されていたそうです。
その時、宗城は45歳の働き盛り。感激して直ちに上京の準備に取り掛かりました。
これから数度の上京を重ねて 宗城の幕末政局に関する活動が行われるのでありますが宗城第一次の上京を迎えた京都の状勢はといえば一部の公卿と結んだ過激な尊王攘夷の浪士たちの暗殺のテロ行為が横行するまことに物騒な状態でありました。
その間にあって宗城は同士の諸侯・薩摩藩士・穏健派の公卿達と連絡をとりながら徳川幕府を朝廷に協力させて今の難局を乗り切ろうとの方針を進めていましたが、
しかしこの宗城の行動は当然に過激な尊王攘夷浪士達の気に入らず文久3年1月10日の早朝宗城の宿所浄光寺の門に「宇和島の老賊の行動は不届きの至り早く改心せずば旅館へ討ち入り攘夷の血祭りに致す可き也。」との貼り紙があり関係者にショックを与えたそうです。
朝廷においても一部の過激派の公卿の暴論が横行し世界の対局より見た宗城らの意見は用いられないので同士の諸侯たちは次々と帰国し宗城もひとまず帰宇するということになり3月末に京都を離れました。
今回の在京生活は、宗城にとって不満なことが多かったのですが、
文久3年3月11日(1863年)孝明天皇に拝謁を許され天盃を頂いたこと 賀茂神社行幸に宇和島藩前藩主伊達宗城もお供した事が感銘深いことであった様です。その時に宮中から賜った神社の食事には、柳の小枝が添えられそれを冠に挿したそうです。
宗城は、この小枝を持ち帰り鉢植えにすると根付きこれは、朝廷の威光が、回復するしるしであろうと大いに喜び帰宇の後 伊達家の庭園に植えたそうです。
後に親木が枯れましたが、この柳はその親木の幼木を育てた二世であるそうです。
宗城と西郷隆盛の会見の場
慶応3年2月23日(1867年)宗城に京都での四候会議開催の協力を求めるため薩摩藩士西郷隆盛が来宇し 翌24日に二人は会見しました。
現在では、枯れてしまいましたが、ここはもともと伊達家の庭園内で二人の会見当時には、松の木が植わっていた場所であったそうです。
※Facebookからの情報で「会見の松」も挿し木しの対策で2代目だそうです。
今日の「宇和島の散歩道」は、「冠の柳」のお話でした。
[宇和島市「伊達博物館」場所付近地図 Simple Map]