「富澤町」カテゴリーアーカイブ

宇和島旧町名 富澤町

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今回で宇和島の旧町名名称碑は、最終回となります。

今日は、宇和島の旧町名「富澤町とみざわちょう」の名称碑です。

現在の町名は、御徒町おかちまちです。

左側に流れている川は、神田川じんでんがわでけして神田川かんだがわではありません(^^;)a

富澤町 名称碑 遠く

そしてこの地が、おいねの三角屋敷跡であったそうです。

富澤町 名称碑 アップ

富澤町 名称碑 範囲地図

富澤町とみざわちょうは、旧藩時代、御殿医冨澤とみざわ氏が居住していたのでこの名がついたと言われてるそうです。

かつてシーボルトの娘イネが、村田蔵六むらたぞうろくの指導を受けるため居住した町ともいわれているようです。

ちなみに俳人 富澤赤黄男とみざわ かきおは、宇和島藩の御典医を代々勤めた医家の長男です。

富澤町 名称碑 説明文

富澤町 名称碑 右側

おいねを紹介する解説文も立てられています。

富澤町 名称碑 左側

説明書きによると 嘉永かえい7年(1854年)、後に日本最初の産科女医となる楠本イネ(オランダおいね 当時27歳)が、ここに住んでいたそうです。

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長崎の出島でシーボルトと日本人妻たきとの間に生まれたイネは、10代から20代にかけて宇和島藩領卯之町の準藩医二宮敬作にのみやけいさく(シーボルトの高弟こうてい)医学を学んだそうです。

吉村昭よしむらあきらの長編「ふぉん・しーほるとの娘」では、イネは、長崎と宇和島を何度も往来し宇和島が第二の故郷のように描かれています。司馬遼太郎しばりょうたろうの長編「花神」には、イネと大村益次郎おおむらますじろうの恋愛が描かれていますが虚構であるそうです。(大村益次郎住居跡は、神田川の左岸を少し下ったところ)

失本イネと名乗っていた(失本とは、父シーボルトの名を漢字に当てたものである)イネは、元治元年(1864年)3月八代藩主伊達宗城だてむねなり(幕末四賢候)に招かれ伊達の一字を与えられて楠本伊篤くすもと いとくと改名しました。

失本では、本を失うになるので伊達宗城だてむねなりより縁起が悪といと言われ 「あんたの先祖は誰だ」と聞かれ「楠木正成の子孫だと言われています」というので、「それでは楠という字を取って、楠本にしろ。それからイネというのも伊篤いとくとしろ」と、伊達宗城の「伊」の字をあたえられたそうです。

イネの娘タダも高子たかこと改名して宗城むねなり夫人猶子なおこの奥女中になったそうです。

ここでも伊達宗城だてむねなりが「タダというのはまずいから、タカにせよ」と改名させたそうです。

娘にタダと付けた理由は、石井宗謙いしいそうけんという、シーボルトの門人だった男に イネは手ごめにあって女の子が生まれます。

それが、タダです。

何の愛情も持たない男に手ごめにされて一人の娘を産んでしまった、なんにも愛情がない、というわけで「タダ」とつけたという事だそうです。

楠本高子はその美しい容貌から、後に明治の美人写真を見ていた松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたと言われています。

慶応3年(1867年)8月10日伊篤は、九代藩主伊達宗徳だてむねえ夫人佳子よしこの出産に立会い泊まり番を命じられたそうです。

伊達宗城だてむねなり猶姫なおひめの信任厚い楠本イネは、宇和島と強い絆で結ばれていたそうです。

イネ

今日の「宇和島の散歩道」は、「宇和島旧町名 富澤町とみざわちょう」のお話でした。

[宇和島市「富澤町」名称碑設置場所付近地図 Simple Map]

愛媛県宇和島市御徒町1-36

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