「龍華山等覚寺」カテゴリーアーカイブ

伊達家墓所〜龍華山編10 最終話

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【20】初代藩主 秀宗秀宗

宇和島にて

元和6年(1620年)、家老かろう山家公頼やんべきんよりが対立していた桜田元親さくらだ もとちか襲撃しゅうげきされて山家公頼一族皆殺しにあうという騒動そうどうが起きます。

秀宗ひでむねはこれを幕府や政宗まさむねに報告しなかったことから、激怒げきおした父によって勘当かんどうされます。公頼きんよりはもともと政宗まさむね家臣かしんであり、政宗側まさむねがわの人間でありました。そのためか、事あるごと様々なことに口をはさんだため、秀宗ひでむねうとましく感じていたとされています。

さらに翌元和げんな7年(1621年)、怒りの収まらない政宗まさむね老中ろうじゅう土井利勝どい としかつに対して宇和島藩の返上を申し入れました(和霊騒動われいそうどう)。結局、利勝としかつのとりなしで政宗まさむねは申し入れを取り下げ、政宗まさむね秀宗ひでむねは面会し、その場で秀宗ひでむねは長男であるにもかかわらず仙台藩の家督かとくげなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗まさむねに対しかなりのうらみを持っていることを話しました。

政宗まさむねもその秀宗ひでむねの気持ちを理解し、勘当かんどうかれこの件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされています。

その後、秀宗ひでむねは藩政に注力ちゅうりょくし翌年の元和げんな8年(1622年)12月、遠江守とおとうみのかみ叙任じょにん寛永かんえい3年の(1626年)8月19日には従四位下じゅしいのげ昇位しょういしました。

【21】初代藩主 秀宗秀宗

晩年・最期
勘当かんどうが解けてから政宗まさむね秀宗ひでむねの仲は親密になり、和歌を交歓こうかんしたり、「唐物小茄子茶入からものなすちゃいれ」と秘蔵の伽羅きゃら名香みょうごう柴舟しばふね」が政宗まさむねから贈られ、これら政宗まさむねから秀宗ひでむねに贈られた品は宇和島藩伊達家だてけ家宝かほうとして秘蔵されました。

(他に茶壷の銘冬寒、銘仙々洞などがあり、宇和島市立伊達博物館の企画展・特別展で見ることができます)

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寛永かんえい13年(1636年)5月に政宗まさむね死去しきょし、6月に仙台の覚範寺で葬儀が営まれた際、秀宗ひでむねは次男の宗時むねときと共に葬儀そうぎに参列しました(秀宗が仙台を訪れたのはこの1回だけだそうです)。

寛永かんえい14年(1637年)から翌年にかけて、島原の乱では幕命ばくめいにより派兵はへいしています。
寛永14年(1637年)頃より病床びょうしょうすことが多くなったそうで病気は中風ちゅうふうだったという事です。このため、寛永かんえい15年(1638年)に世子せいしであった次男の宗時むねときが宇和島に帰国して「太守たいしゅ」「殿様とのさま」として政務を代行しました。このため、歴代に宗時むねときを入れている記述が見られることより、幕府からも実質的な当主は宗時むねときであると認識されていたようです。
秀宗ひでむね晩年の宇和島藩では領内検地、そしてそれを基にした定免法(年貢の固定化)の採用、藩士給与についても従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米の現物支給)としていました。慶安けいあん2年(1649年)2月5日には宇和島を大地震が襲い、翌年に長患ながわずらいいしていた中風ちゅうふうを理由に療養りょうようを幕府より許されて宇和島に帰国しました。
承応じょうおう2年(1653年)に宗時むねときが39歳で早世そうせい(若くしてなくなる)したため、三男で20歳の宗利むねとし世子せいしとなります。その翌年からは藩と商人資本による新田開発が進められ明暦3年(1657年)7月21日、世子せいし宗利むねとし家督かとくゆずって隠居いんきょしました。

8月16日には五男の宗純むねずみに伊予吉田藩を分知したため、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となりました。
明暦めいれき4年(1658年)6月8日に江戸藩邸はんていで死去します。享年きょうねん68。死後の翌日、宮崎八郎兵衛・高島太郎衛門が、6月18日に神尾勘解由、6月23日に渡辺藤左衛門がそれぞれ殉死じゅんししました。
人物・逸話
秀宗ひでむねは宇和島藩祖はんそでありますが、宇和島では余り崇敬すうけいを集めておらず、宇和島市内には顕彰碑けんしょうひも銅像も無く、「秀宗公ひでむねこう」と尊称そんしょうする人もいません。これは幕末・維新期の藩主宗紀むねただ宗城むねなりが名君だったためにそのかげにかすれたためとされています。

まあそれも有るかもしれませんが、山家やんべ邸が襲撃しゅうげきされ、山家一族やんべいちぞくは皆殺しにされた事件は、秀宗ひでむねめいにより桜田玄蕃さくらだげんば襲撃しゅうげきしたとも言われていますのでその影響えいきょうもあるのかもしれませんね。

ただし名君めいくんだったと伝わり、参勤交代さんきんこうたいの際に宇和島の帰国途中で海が荒れて船が転覆てんぷくしそうになった時、秀宗ひでむねだけが泰然自若だいぜんじじゃく、少しもさわがなかったそうです。

あるいは豊臣秀頼とよとみひでよりと組みち遊びの時、年長ねんちょう秀宗ひでむね秀頼ひでよりを組みいたが、みつける際に咄嗟とっさ懐紙ふところがみを取り出し、直にまなかったので豊臣秀吉とよとみ ひでよし淀殿よど夫妻をはじめ豊臣家とよとみけの面々は秀宗ひでむねに大いに感心した、と伝わっています。
秀宗ひでむね支藩扱しはんあつかいされるのを嫌い、将軍徳川家光とくがわ いえみつとの御成之間おなりのまで対面の際、異母弟忠宗ただむねより上座かみざ着座ちゃくざして政宗まさむねの長男、仙台藩の風上かざかみに立つ事を示しています。秀宗ひでむね政宗まさむねに似て和歌に堪能たんのうだったと伝わっております。

宇和島伊達400年祭
画像をクリックすると拡大して見られます。
宇和島伊達400年祭2

今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜龍華山編10」のお話でした。

愛媛県宇和島市野川甲1157
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