宇和島にて
元和6年(1620年)、家老山家公頼が対立していた桜田元親に襲撃されて山家公頼一族皆殺しにあうという騒動が起きます。
秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当されます。公頼はもともと政宗の家臣であり、政宗側の人間でありました。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされています。
さらに翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れました(和霊騒動)。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話しました。
政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれこの件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされています。
その後、秀宗は藩政に注力し翌年の元和8年(1622年)12月、遠江守を叙任し寛永3年の(1626年)8月19日には従四位下に昇位しました。
晩年・最期
勘当が解けてから政宗と秀宗の仲は親密になり、和歌を交歓したり、「唐物小茄子茶入」と秘蔵の伽羅の名香「柴舟」が政宗から贈られ、これら政宗から秀宗に贈られた品は宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵されました。
(他に茶壷の銘冬寒、銘仙々洞などがあり、宇和島市立伊達博物館の企画展・特別展で見ることができます)
寛永13年(1636年)5月に政宗が死去し、6月に仙台の覚範寺で葬儀が営まれた際、秀宗は次男の宗時と共に葬儀に参列しました(秀宗が仙台を訪れたのはこの1回だけだそうです)。
寛永14年(1637年)から翌年にかけて、島原の乱では幕命により派兵しています。
寛永14年(1637年)頃より病床に臥すことが多くなったそうで病気は中風だったという事です。このため、寛永15年(1638年)に世子であった次男の宗時が宇和島に帰国して「太守」「殿様」として政務を代行しました。このため、歴代に宗時を入れている記述が見られることより、幕府からも実質的な当主は宗時であると認識されていたようです。
秀宗晩年の宇和島藩では領内検地、そしてそれを基にした定免法(年貢の固定化)の採用、藩士給与についても従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米の現物支給)としていました。慶安2年(1649年)2月5日には宇和島を大地震が襲い、翌年に長患いしていた中風を理由に療養を幕府より許されて宇和島に帰国しました。
承応2年(1653年)に宗時が39歳で早世(若くしてなくなる)したため、三男で20歳の宗利が世子となります。その翌年からは藩と商人資本による新田開発が進められ明暦3年(1657年)7月21日、世子の宗利に家督を譲って隠居しました。
8月16日には五男の宗純に伊予吉田藩を分知したため、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となりました。
明暦4年(1658年)6月8日に江戸藩邸で死去します。享年68。死後の翌日、宮崎八郎兵衛・高島太郎衛門が、6月18日に神尾勘解由、6月23日に渡辺藤左衛門がそれぞれ殉死しました。
人物・逸話
秀宗は宇和島藩祖でありますが、宇和島では余り崇敬を集めておらず、宇和島市内には顕彰碑も銅像も無く、「秀宗公」と尊称する人もいません。これは幕末・維新期の藩主宗紀と宗城が名君だったためにその陰にかすれたためとされています。
まあそれも有るかもしれませんが、山家邸が襲撃され、山家一族は皆殺しにされた事件は、秀宗の命により桜田玄蕃が襲撃したとも言われていますのでその影響もあるのかもしれませんね。
ただし名君だったと伝わり、参勤交代の際に宇和島の帰国途中で海が荒れて船が転覆しそうになった時、秀宗だけが泰然自若、少しも騒がなかったそうです。
あるいは豊臣秀頼と組み討ち遊びの時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出し、直に踏まなかったので豊臣秀吉・淀殿夫妻をはじめ豊臣家の面々は秀宗に大いに感心した、と伝わっています。
秀宗は支藩扱いされるのを嫌い、将軍徳川家光との御成之間で対面の際、異母弟忠宗より上座に着座して政宗の長男、仙台藩の風上に立つ事を示しています。秀宗は政宗に似て和歌に堪能だったと伝わっております。
今日の「宇和島の散歩道」は、「伊達家墓所〜龍華山編10」のお話でした。