このお城の写真は、宇和島城の写真です。
宇和島城は、鶴島城(つるしまじょう)、板島城(いたじまじょう)、丸串城(まるぐしじょう)、板島丸串城(いたじままるぐしじょう)、とも言われていました。
宇和島はかつて板島(いたじま)といい、かなり古くからこの地に豪族の砦があったとそうです。
戦国時代の天文永禄年間(1532〜69)に 豊後の大友勢が攻めて来た頃は、高串の土豪家藤監物が、守っていたそうです。
天正3年(1575)には、西園寺宣久(さいおんじのぶひさ)の居城となり秀吉の四国征伐のあと天正13年に小早川隆景の領地となっては持田右京が、同15年戸田勝隆の領地となっては戸田与左衛門が、それぞれ城代として入城していたそうですが、その頃は本城ではなく大がかりな城郭があったとは考えらえないという事です。
戸田氏のときは、大洲が本城であったそうです。
文禄4年(1595)7月藤堂高虎(築城の名手)が宇和郡7万石の領主となるとこの城を本城と定め翌慶長元年から6年間を費やして本格的な築城工事を行ったという事です。
その後宇和島城は、高虎ののち、富田信高についで 慶長19年に伊達秀宗を城主として迎え以来明治維新に至るまで 宇和島市民なら皆さんご存じのように伊達代々の居城となりました。
別称の「鶴島城」は、伊達五代村候(むらとき)によって名付けられたそうです。
ざっとこれが、宇和島城の略歴です。
では、この天守閣の写真ですがこれはたぶん昭和37年秋頃の写真だと思います。
いっぱい人が、お城山の天守閣に集まっていますね。
いったいどういった行事が、あったんでしょうか?
ちょっとネットで調べてみると昭和35年から 昭和37年(1960年 – 1962年)には天守が、解体修理され37年10月に新装の姿が復元されたとありました。
という事は、この天守閣への人の集まりは、天守閣の修理完成を祝ってのお披露目行事でもあったのでしょうか?
よくよく見ると 天守閣へ入場するために沢山の人が並んでいる様に見えますね。
今日の「宇和島の散歩道」は、「宇和島城」のお話でした。
宇和島城天守 | |||||||
お問い合わせ先 | 住所:宇和島市丸之内1 (内1・2・3) 電話:0895-22-2832 (郷土館 電話:0895-22-3904) |
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営業時間 | [開門]10月~3月 4月~9月6時~17時 6時~18時30分[天守]9時~17時[郷土館]9時~16時 |
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休館日 | [天守]無休[郷土館]月曜日 | ||||||
入場料金 |
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公式サイト | 宇和島城天守(宇和島市公式サイト内) | ||||||
所要時間 ※JR宇和島駅起点 |
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駐車場 |
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[宇和島城地図 Simple Map]