宇和島城の追手門は、その規模の大きさから、「十万石には過ぎた門」だといわれていたそうです。
追手門は宇和島城に残る数少ない建物として、昭和9年に天守と一緒に当時の国宝に指定されていたそうでその時も「すこぶる大である」と評価を受けていたほどだったそうです。
追手門は、城の正門という意味を持ち大手門とも書きますが、宇和島城の追手門は、櫓門という形式の門となるようです。
ちなみに宇和島では、「追手門」を「おたもん」とも呼ぶ方もおられました。
実際に私も「おたもん」と言っているのを耳にしたことがありました。
これは多聞(多門)から転じ多聞というのは、城の用語では石垣の上に築いた長屋造りの建物という意味だそうです。
絵図にも「御多門」と記されていている事から櫓の部分のことを指して呼んでいたと推察できるようです。
櫓門は、言葉のとおり、門の上に櫓を渡した2階建の城門で、その櫓は渡櫓と呼ばれていました。
当時の戦法では、絶対に破ることのできない究極の構えであったようです。
渡櫓の窓から射撃し、門扉まで攻め寄った敵には、その頭上に開く石落で攻撃出来るようになっていました。
また鯱瓦を飾ることのできる格式の高い門でもあったようです。
宇和島城の追手門は、門の両側に石垣を築き、その上に櫓を渡している構造でした。
その追手門の規模を示す昔の資料を見てみると
渡櫓 | 桁行 12間 | 約24m |
梁間4間 | 約8m | |
高さ 4間5合 | 9m | |
石垣 | 高さ 2間6~8合 | 約5.2 ~ 5.6m |
門扉 | 3間6尺 | 約7.8m |
その追手門も昭和20年7月12日の宇和島空襲で、焼失してしまいました。
もうあと一ヶ月ちょっとで終戦でしたのにホントに残念です。
そして、昭和24年にその指定が解除され、昭和26年には戦災復興のために市街地化され、その片すみに石垣に使われていたと思われる石が、記念碑としてひっそりと立っています。
今までここに記念碑があったとは全然気が付きませんでした(^^;)
今日の「宇和島の散歩道」は、「宇和島城・追手門」のお話でした。
[宇和島城追手門跡石碑地図 Simple Map]